リレーエッセイ 「チャレンジドの夢」

 杉本 睦子さんの場合

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杉本さんの写真  「やりおえた充実感がたまらない」

 私は真夏の8月11日に“オギャー”と産声をあげ、それはそれはかわいい?元気な女の子でした。それが、3歳8ヵ月の時に高熱をだし、一時は死んだようになりながら、それでも回復し、ほとんどわからないくらいになおっておりました。しかし、小学校にはいってから歩き方がだんだんおかしくなってきたので、2年生のときに大阪市立大学付属病院に3ヶ月入院して調べたのですが、いまだに、はっきりした病名も原因もわかっておりません。
 それから、高校まで校区の学校に通い、大学は通学がたいへんなため、通信教育で仏教大学を卒業し、卒業後は、生け花やさをり織りなどを習っていましたが、95年8月慢性骨髄性白血病にかかってしまいました。
 慢性骨髄性白血病とわかったとたん今まで習っていた生け花などをやめてしまい、「とにかく安静に!!」と父や母からいわれていて、安静にしていましたが、何かしなければとずっと思っていました。以前母の知人から「パソコンを教えているところがあるよ。」というのは聞いて知っていたのですが、その当時まったくパソコンには興味がなくて、、、。でも、病状も安定してくると何かしたいという欲求もだんだん強くなり、パソコンなら家ででもできるしとプロップのことを思いだし、12月に週1回ならとお医者様の許可も出て、96年1月からパソコンを習いにいくことになりました。
 今まで、パソコンというものをみたこともなく、セミナーに行って、パソコンというものの現物を初めて見て初めて触り、これがパソコン?とちっちゃなPower Bookをみて少し拍子抜けしたのを覚えています。とにかく落ちこぼれないようについていこうと必死で初級,中級と進み、アート展にも参加できましたが、絵の技術など何もなかったので、最初の第1作品を作るまでかなり時間がかかりましたし、いろんな人にたすけてもらって、やっと完成、ホッとしてこれで少しゆっくりできると思っていました。杉本さんの絵今まで何枚も絵など描いたことがなかったので、かなり疲れていました。それで、アート展が終わればまた来期は、初級コースで1から勉強などとのんびり考えていたので、まさか工房のメンバーに入っているとは、夢にも思いませんでした。
 12月の関電の仕事もハードで、何度投げ出したいと思ったかわかりません。でも、みんなと一緒に頑張って作品を納めたあとのやり終えたという充実感はこたえられないものがありました。工房のメンバーにいれていただき、仕事をする,給料をもらえるという喜びも味わうことができました。
 これからは、私も工房のメンバーの一員だと胸をはっていえるように、頑張っていきたいと思います。

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