リレーエッセイ 「チャレンジドの夢」

 中村 弘子さんの場合

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中村さんの写真  「自己紹介」

 ただ立っていると数秒間は障害者である事を悟られないかも知れません。しかし、やがて勝手に首が動きそれを抑えるために手が動き、やはり私は何処から見ても障害者なのです。
 障害者である前に同じ人間でありたいと思います。しかし自己紹介の場で障害を無視する事は出来ませんので、まずは障害について書いていこうと思います。障害名、脳性小児麻痺。不随運動失調等により上肢機能の著しい障害。と身体障害者手帳に記載されています。昭和39年1月、予定より2ヶ月早く2400gの未熟児で生まれました。更にその産院で初めて使う保育機で、機械の調節がうまく出来なかったらしく、私を入れたり出したりしていたそうです。そのような悪条件が重なった事が障害の原因であると考えられます。
 障害について、もう少し詳しく書いてみますと、字は書けますが後で読み返すと読めない事もある上肢障害。知らない人に電話を掛けると切られてしまう事が多い言語障害。裸眼で0.3矯正視力が出ないので新聞等を読む時には老眼鏡や虫眼鏡を使用しています。健康診断の聴力検査で詳しく調べると引っ掛かります。また階段の下りは手すりが必要で、観光地等で手すりがない場所では、人の手を借りる事があります。このような障害があるのですが、生まれつき障害がある私にとって、この身体が当たり前なのです。大多数の健常者と比べなければ、また、もう少し障害者にとって便利な世の中であれば、自分が障害者であることさえも気付かないかも知れません。私にとって障害は、人が空を飛べない事と同じなのです。
 小、中、高と養護学校で過ごしました。小学校ではお受験を体験しました。将来良い大学に行くためではなく、就学猶予にならないための受験でした。西宮市立西宮養護学校小学部では私達の学年まで入学試験が行われていたのです。それでも親達が行った入学人数増員の嘆願運動の結果、他の学年より人数が増えています。また、私達が5年生の時、それまで就学猶予になっていた人達が同じクラスに入って来ました。その友人達は年令がまちまちで10歳以上年上の同級生もできました。中には教師より年上の人もいて、その先生は年上の人を叱る事に困惑されていたそうです。重度障害者2人に対して教師が1人、軽度障害者4人に対して教師が1人の割合いで、私達は生徒16人に対して担任教師が7人もいて、大変恵まれた環境であったと思います。
 そのクラスで数年前に同窓会を開催した際、出席人数が同級生4人教師12人親2人と、同級生の出席が大変少ない集りになりました。重度の障害がある友人は親の高齢化に伴い外出が困難になっていたのです。学校を卒業して会う機会がなくなった友人達の現状が把握できていませんでした。次の機会では、外出介助から考えなければなりません。また、私達は4人の友人を亡くしています。その友人の方が、私より生きる価値があったかも知れない、と思う事もありますが、その友人達に恥ずかしくないよう前向きに生きたいと考えています。

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