村木厚子さんの裁判を見守り支援する部屋

平成22年3月4日 第11回公判がおこなわれました。

石井一 参議院議員が証人として出廷しました。

第11回公判 傍聴記 平成22年3月4日
by ナミねぇU

「厚子さん第11回公判傍聴記」 by ナミねぇ
~「これは政治案件ですよ」は、真っ赤な嘘~

3月4日(木)、朝から小雨そぼふる中、大阪地裁へ。今日はジャーナリストの江川紹子さんも東京から傍聴に来られ、地裁で合流。

 

今日は石井一参議院議員の出廷日ということで傍聴券の抽選があるため、駐車場に人の列。初公判が4倍だったことを思うと想像したほど多くない。私は家族傍聴券を戴いていたが、運だめし(?)と思って並んでみたが・・・くじ運の悪い私は、やっぱり外れた! せっかくなので抽選券に当たった江川さんと記念写真を撮らせて戴こうとカメラを構えたら「敷地内撮影禁止っ!」と、警備員にどえらく怒られる。朝からとほほな私・・・(^^;)

仕方なく、地裁の敷地から出て、傍聴券の当たった江川さんとツーショット。

 

10時開廷。石井議員入廷。白髪、大柄。選挙区が私の住む「兵庫一区」なので、選挙カーや路上演説などでお見かけしたことはあるが、間近に会うのは初めて。「こわもて」の印象を抱いてたが、終始、穏やかな声で話された。証言席に移る前に、秘書がペットボトルのお茶を渡し、一口飲んで証言席へ。

石井氏は弁護側証人なので、宣誓の後、弘中弁護士からの質問で尋問開始。まずは1969年衆議院議員初当選から今日までの経歴や所属した委員会などが語られる。外交、防衛・安保、国土交通、都市開発に関する委員や選対委員長歴任など。

弘中弁護士が「厚労省の委員会はありますか? 」と聞いたあと「いわゆる厚労族議員かということですが」と直截にいったので、廷内にちょっと笑い。「厚労委員会に属したことはなかったと思うが・・・私は何省の族議員でもない」と、ちょっとムッとした口調で石井氏。

「本事件に関わった倉沢を知ってますか?」弘中弁護士の質問が核心に触れ始める。「勿論!」と、石井氏。弘中氏「どんな人でしたか?」「1982年に秘書公募で採用した。礼儀正しい人だったが、1年後の選挙で私が落選した時に事務所を離れ、その後、職を転々とした後、弟(石井一二氏)の秘書になったので、わたしにとっては弟の秘書という印象が強い。」と石井氏。「1年で辞めたので、重要な仕事は担当していない。」とも。

この後、何度も石井氏は、 倉沢被告が自分にとって重要人物ではないことを繰り返し述べる。「彼は私のインナーサークルの人ではない。奥さんが働いて支えてるとも聞いたし、失礼な言い方になるが、職を転々としてるので、どこで何をしてるか知らない。いわば周辺の人だ。」クールでかなり突き放した言い方。「インナーサークルの人ではない」という言葉を聞いた時は、なぜだか背筋がゾワッと。

弘中氏「あなたは、倉沢氏とどの程度の接触が有ったのでしょう?」石井氏「私は克明に手帳をつける性格で、いつ誰と、どんな要件で会って、どう対応したかなどを全て書いている。それによると・・・倉沢に会ったのは、2001年1回、02,02年0回、04年2回・・・007年は選挙があり、 かなり会っているが、それでも6回。つまり平均すると年に1-2回事務所に顔を出す程度ということです。」と石井氏。

弘中氏「次にお聞きしますが、あなたは厚労省社会援護局元部長の塩田幸雄氏との面識はありますか?」。石井氏「覚えがありません。長年議員をしていると、相手は僕を知っててもこちらは記憶がないということが、いくらでもあります。塩田さんというのは直接会ったこともないし、顔も思い浮かばない。」弘中氏「塩田氏は、阪神淡路大震災後の復興委員会であなたに会ったと言ってますが・・・」石井氏「兵庫一区は被害が大きかったので、会った事実がないとはいえないが、覚えがありません。」

「では・・・」弘中氏の口調が少し厳しくなる「平成16年2月下旬頃、あなたが塩田氏に、障害者団体の件で相談が行くので、よく聞いてやって欲しいと、電話したことは?」。石井氏「全くありません。働きかけなど一切していません。」弘中氏「そのようなことが、あたかも有ったような報道が多々なされて、あなたは名誉毀損の訴えを起こされていますね。」

「訴訟など起こしたくなかったっんですが・・・」石井氏の声のボリュームが少し上がる。「報道がなされた2009年春は総選挙前の大変な時期ですよ。まして党副代表でしたから。その時期に、新聞、TV、週刊誌などで毎日毎日、身に覚えのないことが報道され、カメラやマスコミがいつもついてくる。そんな状況が続いて本当に困りました。

そのうち「キャリアウーマンが私の依頼に抗しきれなかった!」などというタイトルが地下鉄の中吊りにも載る有様で・・・」石井氏は真剣に訴える。しかし「ついには男女関係でもあるのかという電話までかかってくるようになり・・・」と話しはじめると、廷内のあちこちで笑いが起きる。
う~ん、ちょっと自慢っぽいかも。(^^;)
「まぁ、そのような訳で弁護士に相談して、身の潔白を証明するために週刊誌を訴えたのです。」

その後、石井氏は「今日なぜ出廷したか」を問われ「私自身もマスコミに書かれて相当辛い思いをしたが、村木さんという女性局長は高知の大学を出て東大卒の競争の中であそこまで上り詰めた。それなのに被告人の席に立たされて、さぞ 辛く苦しいだろうと、その心情を思い、同情の気持ちから、今日の出廷を決めた。」と語った。

「では問題の、平成16年2月25日についてお聞きします。」弘中弁護士の厳しい口調に、廷内が静まる。「これが倉沢の手帳ですが・・・」法廷内の左右の壁にかけられた 大きなディスプレイに、手帳が写しだされる。
「この日の倉沢の手帳には<13時 石井一、木村>との記述があり、これが本事件にあなたが関与している・・・口添えを依頼され、厚労省に働きかけた、という疑いに繋がってるのですが、あなたはこの日、倉沢と会われてますか?」。石井氏「絶対ありえません!私は過去40年間、その日の出来事を手帳に記録してますから・・・200冊になるんですよ。それを確認してもらえれば・・・」

石井氏の言葉を受けて弘中氏が「手帳を!」と、裁判長に要請したとたん、検事が「異議あり!」と大声で叫びながら立ち上がる。公判前整理手続で証拠採用していないものを、突然出すな、というのが検事の言い分だ。「採用できません!」検事の顔が真っ赤になる。「ダメです!」「認められません!」

「では、証拠採用が必要な理由を述べます。」と弘中氏が冷静に話し始める。「まず何より、石井氏の関与を言ってるのは検察官です。これを争う場で、否定材料を提出するのは、当たり前ではないですか?」。立ち上がった検事は着席するのも忘れて、真っ赤な顔のままで弘中氏を見つめている。

「公判前整理手続の段階では、石井氏が克明に手帳に記録をとる方だとは分かりませんでした。しかし本件について、昨年9月に石井氏が事情聴取を受けた時、実は石井氏は手帳を検察官に見せているんですよ。検察官がきちんと見なかっただけです。石井さん、その時の検察官がここに居ますか?」「はい」石井氏が 検事席を見ながら答える。
「そこにおられる・・・少し太られてメガネもかけておられるので別人のように見えるが、あの方です。」名指しされたM検事、ちょっと顔を赤らめて、俯く。

私は驚いて傍聴席で飛び上がった。なぜならこの事件は「石井議員の口利きに端を発した、政官がグルになって犯した犯罪」と検察は言い続けているにも関わらず、捜査時点はおろか逮捕・起訴後3ヶ月の間、倉沢の供述の裏付け捜査を一切行っていないということが明らかになったからだ。ようやく9月に入って、あわてて石井議員から話を聞いたのだろう。
検察は、事件の端緒になる口利きについて最も基本的な裏付け捜査もせずに、主犯の供述だけを基にして厚子さんを逮捕・起訴していたことになる。何という暴挙! 何という怠慢! 開いた口が塞がらないとは、こういうことだ!!

「そのような訳で、手帳の証拠採用をして戴きたい!」弘中氏の言葉に、裁判長が頷く。
ディスプレイに、石井氏の手帳がアップで映し出される。「2004年2月25日・・・この日に丸印がついてますが、これは?」「それはゴルフの日、という印です」と石井氏。「7:56ティーオフと書かれてますね。どこのゴルフ場ですか?」「成田です。」しばらく、参加メンバーやスコア、何時頃終わったというような会話が続く。

「この手帳を、あなたはM検事に見せたんですよね。事情聴取の場所は?」「大阪のリーガロイヤルホテルでした。」と石井氏。
う~む、国会議員を呼び出す時は一流ホテルで話を聞くのか・・・と心のなかでツッコミを入れる私。
「(事情聴取なので)会話は録音されてるはずですね?」と弘中氏。うなずく石井氏。その後、手帳を精緻に点検しながら弘中氏と石井氏のやりとりが続き、その日はどのようにしても石井氏が倉沢に会うことは出来なかったことが判明。

記者たちが、バラバラっと法廷外に飛び出す。今日の報道は「石井議員、その日はゴルフ!」やね、きっと。
弘中弁護士の辣腕ぶりが、いかんなく発揮された午前の法廷だった。

11時過ぎ、少し休憩がとられると、石井氏は笑顔とドスの利いた声で弁護団席に座る厚子さんに近寄り「初めてお会いしますね」と声をかける。
立ち上がって微笑みながら一礼する厚子さん。

休憩の後は検事が尋問に立ち、石井議員の秘書の人数や役割分担、陳情対応などを聞いた後「あなたが凛の会を知ったのは?」と石井氏に問うた。
「2006年11月6日です。」と石井氏。それは偽造証明書が発行されてから、2年10ヶ月も後のことだ。「議員会館ではなく、十全ビルのオフィスで会いました。」

「選挙の手伝いをすると言って来た倉沢が、選挙関係の話をした後、新聞のようなものを僕に見せて、これを選挙に活用してはどうか、と提案するので見ると<凛>と書いてあった。これを選挙公報に使うと、障害者郵便なので安く送れる。8円だかなんだか、そんな話だった。でも障害者関係を熱心にやってる議員は他に居るし・・・障害者にしか送れないんじゃあまり意味もないし・・・あ、もしかしたら、誰にでも送れるのかな?これは村木さんに聞いたほうが早いか。」と、そこまで言ってニッコリ笑う石井氏。傍聴席にも笑い声。

「まぁそんな訳で、断ったよ。倉沢もそれ以上言わなかったしね。」
「僕はね、倉沢には犯罪は構成できないと思うんだ。使われたり、利用されたりするタイプだよ彼は。今はどうしてるか全く知らんね。」

12時過ぎたので、ここで昼休みとなる。地裁駐車場前の喫茶店で、アイスティを飲みながらツイッターに「公判傍聴記速報」を打ち込む。パソコンを閉じる前にツイッター・サイトをのぞくと、江川さんも凄いスピードで速報をUPしている。わぁ~い、ツイッター競演だ! とちょっと浮かれてたら、午後の法廷に入るのが少し遅れてしまった。
そろりと法廷の扉を開けると、わっ、なんやなんや! 検事と弘中弁護士が大声で言い争っているやないの!!

検事がまだ石井議員の手帳を「証拠採用できない!」「不意打ちだ!」などと叫んでいる。往生際の悪いやっちゃなぁ。「公判前整理手続で提示していなければダメだという法律など無いでしょう!」と弘中弁護士。怒鳴り合いが終わらないので裁判長が「ではこの件は後ほど。」と公判を続けるよう促す。

そして公判が再開されたが、その後の検事側の言動にはズッコケた。なんと検事側も、石井氏の手帳の平成16年2月25日のページをディスプレイに映し出して尋問を開始したのだ。しかもすでにゴルフ場に色々裏をとってることが丸わかりの尋問が続く。弘中氏が立ち上がり「そっちの調べたことも、証拠提出しなさいよ!裁判長、証拠請求します!」

「いや、これはまだ調査中のことなので・・・正式な書面化もしていないので、証拠ではない!」
検察側は、平成16年2月25日に石井氏がゴルフに行っていたことに気づき、こっそりゴルフ場や同行した関係者にあたっていたのだろう。弁護団に先を越されたことが悔しくてならないんやね、きっと。

検察側は、ゴルフに同行したK議員が、当日予算関係の委員会に出席していたことの「証拠」となる「委員会出席者名簿」を持ち出して(これだって証拠採用されていないコピーものやのに、自分が証拠のように使うのは、良いらしい)石井氏のゴルフというアリバイを崩そうとした。しかしその委員会は、出席してもしなくても「委員全員の名前が出席者名簿に掲載される」という慣習だということを石井氏が暴露し、もう法廷はしっちゃかめっちゃかの様相に。

最終的に裁判長の判断で、石井氏の手帳の「平成16年2月24日と25日」が「証拠採用」され、今日の公判が終わった。

傍聴者たちがみな、席からザワザワと立ち上がりかけた時、石井議員が「ひとこと、お話させて戴きたいことがある。」と声を張り上げた。
裁判長、検事、弁護団、傍聴者全員が石井氏が何を言うのかと耳を傾ける。
石井氏の、政務に鍛えられた大きな声が「私は、この裁判の結果は、検察庁の倫理・存在(意義)を問うていると思っている。検察が、公正無私で善であることを私は希望している。」と語った。

そして石井氏は、公判後の記者会見でも「あなたたちマスコミは、私を犯人扱いしてこられた。村木厚子さんも、大変つらい思いをしておられる。事実に基づかない報道を続けてこられた皆さんは、いったいこの責任をどうとるのか。情報の集め方にも問題があるのではないか」と、問題提起を投げかけて、大阪地裁を後にした。

 

最後に、今日の石井氏の証言の中で、最も印象に残った言葉を記しておこう。
「私は、顔はいかついが、実は心は優しいのですよ。」
笑いを誘うことも忘れない、関西人の石井さんであった。

<文責:ナミねぇ>

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「第11回公判傍聴記 by U」

倉沢が石井事務所を訪問して、証明書発行の口添えを依頼したという「2004年2月25日は、成田市でゴルフをしていた。倉沢とは会っていない。」「厚生労働省の塩田部長は、会話をした記憶はない」~石井一氏

 

 第11回公判は、弁護側証人として石井一参議院議員(民主党選挙対策本部長)の証人尋問で裁判所横の通用口にもカメラがきていた。事件がマスコミでセンセーショナルに報道されていた時期は、2009年夏の総選挙の直前であり、いろいろな影響を受けたことを思い出しながら、抽選会場に行った。第1回公判でSさんとともに抽選に外れた私は、並んでいる人は初日の3分の一ぐらいだけれど、又外れるのかとどきどきしていたが、今回は二人とも大丈夫だった。私は、様々な日程と重なり、約1ヶ月ぶりの傍聴。傍聴席は、前に来たときは、1列目が記者席だったのに、2列目も記者席になっていた。

 マスコミの頭撮りの後、始まった公判は、冒頭弁護人が証拠採用を求めた石井氏の手帳の採用を巡って検察側の異議と弁護側のやりとりが行われた。検察側曰く「公判前整理手続きの際も、事前手続きとしても示されていないのでやむを得ないとは判断できない。」これに対して弁護側は、事実関係について争うと第1回目公判でも表明しているその一環。手帳そのものが手に入ったのは最近。」と主張。証拠採用については公判後裁判長が判断するとされ、証人尋問が始まった。(当日の毎日新聞で「石井氏不在証明主張」などと報道があったので冒頭のやりとりはさもありなんという感じだった。)

 

 *弁護側の石井氏の経歴と倉沢氏との関係についての質問で、石井氏は、

「1966年から40数年の議員生活で外交、防衛、安全保障、危機管理、都市問題、国対、選対関係が中心の活動で、文教や厚生労働は縁がなかった」「倉沢邦夫は、1982年公募で採用し1983年の選挙で落選するまでの約1年私設秘書だった。事務所を辞めた後は、2007年の参議院選挙に全国比例で出ることになった2006年8月に全国にいる元秘書と同じく、協力を要請し、倉沢くんには後援会の北関東の担当としてボランティア選挙スタッフとして協力をしてもらった。過去10年の事務所への出入りは、2001年に1回、2002年2003年は0回、2004年2005年は各2回、2006年4回、2007年6回、2008年2回、2009年0回、1983年~2001年までは年に1~2回程度で私のいないときにはきていないのではないか」

 

*「凜の会」との関わりについては

「2006年11月に選挙対策で事務所に来てもらい打ち合わせをしたが、その話が終わったときに、倉沢がタブロイド版の新聞『凜』を見せて、ここに写真や原稿を載せて全国に発送してはどうか。料金は8円ぐらいでとても安いと言ったが、私は、障害者の皆さんをバックにした候補者はすでにいるので、今更とってつけたようなことをしても効果はないし、失礼だと断った。その際、倉沢が会の代表を頼まれていていると聞いた。当日の案件の重要部分ではなかったので(断ったので)手帳にメモも記載していない。忘れていたが、この件が報道され、私の関与が取りざたされて、そういえばそんなやりとりをしたと思い出した。そのとき以外に倉沢と凜の会のことで会話をしたことはない。」

 

*倉沢氏が石井事務所を訪ね、口添えを依頼したという2004年2月25日について

 石井氏は、約40年の議員生活中の活動について自身で振り返り返りができるように115㎜×100㎜厚さ10㎜の手帳を2ヶ月単位(1年で6冊)で作成・利用しており、日程の行き違いを避けるように神戸と東京の事務所にも大学ノートで同内容のスペアをおいており、事務所に戻ると秘書が日程について書き加え共有化していたという。

 

◆ここで弁護側が、石井氏の手帳を示そうとした時に検察側が、またもや冒頭と同じ主張を繰り返した。弁護側とのやりとりの中で、1月20日の石井氏と広中弁護側との打ち合わせの際、2004年2月25日どこにいたか解らないかと尋ねられ、石井氏は手帳が神戸に保管してあるのでと、神戸の秘書に問い合わせ、該当ページをファックスしてもらい、公判の4~5日前に本体を弁護士に渡したとのこと。また、このやりとりの中で、2009年9月に前田検事(当日在廷し、検察側尋問の多くを行った)が大阪のホテルで石井一氏を事情聴取した際に、石井氏は2004年分6冊を持参し、机上においた。それを、検事はパラパラとみたが、内容についての質問ややりとりはなかったとのこと。(このときに、検事が詳しく日程を検討すれば、その時点でシナリオは崩れた・・・?)

倉沢氏の手帳にある「2004年2月25日13時石井一」という内容について、石井氏は、2004年1月2月分の手帳を示し、当日は、ゴルフに行っていたと証言。当日は、予算委員会の集中審議の日で、メンバー以外は、国会の予定は入らない日となったので、一両日前にゴルフをセットし、千葉県成田市にあるゴルフ場に行った。帰りは4時少し前に出て、6持から予定していた赤坂での会合に間に合った。その間、事務所には立ち寄っていない。

検事から、当日2時からの文部科学委員会に出席しているとの議事録の記載の指摘があり、4時前まで一緒と言うことの矛盾を突いたが、石井氏より「国会の議事録は、出席者という記載は、差し替えや事前欠席届のあったもの以外は、メンバー全員の名前が記載される。出席時間など詳細な記録はない。出席予定で結果として欠席の人も出席者として記載されている。本人に確認しないと解らない。採決の時は厳密に把握する。予算委員会の集中審議の日は、原則として他の委員会は開かれないが、例外的に与野党の合意で短時間新しい大臣の基本質疑を入れたのだと思う。」と国会の議事録のファジーさが説明された。

また、ゴルフ場の当日の石井氏と参加メンバーの行動内容についてすでに検察側が捜査していることもやりとりの中で判明し、弁護側が判明している内容の開示を求めたが、検察側は、証拠としうる内容に整理できていないと言い張り、後日の取り扱いを主張した。広中弁護士と検事とのの激しいやりとりの上で弁護側から、裁判所として開示を求めることを要請。(検察側は、石井氏の手帳を証拠採用することを拒みながら、反論材料をそろえていたことが判明。のらりくらりと同じようなことを質問しながら、「これはどうだ」と出してくる。やはり、したたか・・・)

 

*塩田部長との関わりについて

 塩田元部長は石井氏とは阪神淡路大震災の復興支援の会議で一緒だった。としている点について、石井氏は、多くの役人の方とお会いしたが、名前と顔に覚えがない。従って、働きかけたこともない。石井氏は、厚生労働関係に限らず、役所関係の陳情については、各省庁の国会詰めのメンバーに、前さばき的相談をしている。石井氏は、重ねて、問題になっている内容については、手帳も、面会録も陳情録も再度精査してもいいが、一切記載も記憶もないと述べた。

 その他、週刊誌の報道への名誉毀損の民事訴訟が係争中であることや、倉沢氏の新会社設立パーティへの参加のいきさつなど、石井氏の思いが、縷々述べられた。

 

*今回の事件についての石井氏の思い

石井氏は、「弁護側証人となることを当初は少し躊躇したが、何故このような事件が起こるのか。どこに原因があるのか。30年前に秘書だった以外何もない。私は、政治家、世論に耐える。私がこれだけつらい思いをしているのに村木さんは法廷に立つ、つらいだろうと思った。自分の名誉回復という面もあるが、村木さんのために証人に立つと決めた」と今日が初対面の村木さんへの気遣いの発言もあった。

最後に、今日示された手帳は、必要箇所のみの抄本を証拠採用すると裁判長が述べ、閉廷を、宣言しかけたところで、石井氏は、「党は、昨日参議院選挙の公認を発表した。選挙対策本部長の私に今日は、何十組も面会に党本部に来ている。しかし、公の約束なので本日はここに来た。今日申し上げたことはすべて真実。今度の事件は、何か政治的な意図があるのか。何ら関わりのないものが巻き込まれ、多大な迷惑を被っている。前田検事にも申しあげたが、この裁判の結果は、検察庁の存在、公正を問うている。公正無私の面目を示してほしい」と少し、演説口調で締めくくられ、閉廷となった。

 

記者が何度も途中で法廷をどたばたと出て行く場面、法廷のスケッチする人が3人もいたなど注目度の高い公判だったが、この間、検察側の捏造が何度も明らかになっているのに、検察はなお、続けようというのかと怒りが改めてわいてきた。と同時に村木さんの穏やかな表情に励まされている自分に気がついた。季節の変わり目、村木さんには、一層健康に気をつけて、乗り切ってほしい。

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