週刊文春 2010年9月16日号より転載

村木厚子厚労省元局長 検察に屈しなかった「壮絶な454日」

でっち上げ、歪曲、虚偽の自白…

郵便不正事件で逮捕された厚労省元局長の村木厚子さん。執拗に“自白”を迫る検察に、村木さんは粘り強く無実を訴えた。それを支える家族の絆。公判では、杜撰な捜査、強引な取り調べが次々と明らかに──。キャリアも自由も奪われながら、戦い抜いた女性の記録。

ジャーナリスト 江川紹子


(上)厚生労働省、(左)村木元局長、(右)上村勉元係長

「被告人は無罪」──十日午後二時の大阪地裁201号法廷に、横田信之裁判長の穏やかな、しかし凛とした声が響く。傍聴席の最前列に陣取った報道陣が、第一報を伝えに、ドッと法廷を出て行く・その間に、裁判長正面の証言台から被告人席に戻る村木厚子・元厚生労働省局長は、弁護団や傍聴席の家族に向かって控えめに微笑む……ことになるだろう。

通常、事件の判決を事前に予想するのは難しい。なのにこのような書き出しになったのは、本件では、もはや無罪以外の判決はありえないからだ。

村木さんは、障害者団体が郵便料金の割引を受けられる制度を悪用した事件で、自称障害者団体「凛の会」のために部下に命じて公的証明書を偽造させた、として虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われていた。

この事件では、大手家電量販店や印刷・通販会社が「凛の会」の機関誌を装ったダイレクトメールを送り、多額の郵便料金を不正に免れていた。その際に使われた証明書は、「凛の会」から頼まれて、上村勉・厚労省元係長が作成したものだった。だが大阪地検特捜部は、「凛の会」の倉沢邦夫元会長が、以前石井一参議院議員の秘書だったことから、石井氏の口添えがあって、厚労省が組織的に偽造をした、とみた。上司から石井氏の話を聞いた村木さんが、部下の上村元係長に指示した、というストーリーが組み立てられた。

しかし、検察側がその筋書きを立証するために送り込んだ証人は、次々に捜査段階の供述調書とは異なる証言をし、証拠請求した重要参考人の供述調書の多くは裁判所に退けられた。

その最たる例が、証明書偽造の実行犯である上村元係長だ。調書では村木さんの指示があったと認めていたが、検察側証人として出廷した法廷では「私が一人で(厚労省の)誰にも相談せずにやった」と証言。パソコンで偽造した証明書に、村木さんの公印を押した、と明かした。だが、担当の国井弘樹検事にいくら本当のことを言っても調書にしてもらえず、やむなく検察側のストーリー通りに作成された調書にサインをした、と取り調べの経韓を語った。

法廷を傍聴していた私には、いかにも気の弱そうな上村元係長が、取り調べの状況を語るうちに、「悔しくてならない」と泣き出した場面がとりわけ印象深い。

上村元係長は、自らの弁護人に差し入れられた「被疑者ノート」に、取り調べの状況や心境を書いていた。
〈どうしても村木と私をつなげたいらしい〉〈だんだん外堀からうめられている感じ〉〈えん罪はこうして始まるのかな〉〈こういう作文こそ偽造ではないか〉……

作文──つまり検事の調書は、本人の供述をそのまま書き取ったものではなく、検察側ストーリーに基づいて書かれ、それにサインをすれば、本人が語ったことにされてしまう。そのような取り調べを受けたのは、上村元係長だけではない。任意の事情聴取を受けた村木さんの元上司や同僚の中にも、検察側に押し切られて調書にサインした者もいる。その彼らも、法廷では調書の内容を否定。検事に誘導されたり、だまされたり、自分も逮捕される恐怖感があった、などと証言した。

そんな中にあって、村木さんはただの一通も自白調書を作成されていない。逮捕後、連日の取調べを受け、「あなたが嘘をついているか、他の人全員が嘘をついているかだ」と“自白”を迫られた。それでも、否認を貫いた。

私は、これまで様々な冤罪事件を取材してきたが、取り調べの苦痛から、虚偽の自白調書の作成に応じてしまい、その後裁判で無実を証明するのに苦労しているケースをたくさん見てきた。無実を主張し続けられる人の方が珍しいくらいだ。

〈さすが自慢のママです〉


村木さんの手記が載る「文藝春秋」10月号

なのに村木さんはなぜ、無実を主強し続けることができたのだろうか。

村木さんは、私が聞き手となって語りおろした手記(『文藝春秋』十月号に掲載)の中で、逮捕直後から連日のように接見に来た弁護士が、様々な分野の知人たちが、「あなたのことを信じている」と書いた寄せ書きを持って来て、接見室のアクリル板越しに見せてくれて、しかも日に日に署名の数が増えていったことで、絶望せずにすんだ、と述べている。そして、自分を支援してくれた人達について、こう語っている。

〈(逮捕されて)失ったものもあるかもしれないけれど、私はこんなにすばらしい財産をもっていて、今回のことでそれに気がついたんだなって思いました〉

さらに、二人の娘の存在。
〈病気や事故など、自分には責任がないのに苦況に立たされることが、将来娘たちに起きるかもしれません。そんな時、私のことを思い出して、「あの時、お母さんも頑張ったんだし、大丈夫、私も頑張れる」って思ってもらいたい〉

母として、娘を思う気持ちが村木さんを支えた。娘二人も、懸命に母を支えた。取り調べ期間中は、弁護士以外との面会も手紙のやりとりも禁じられていたが、二人は手書きのメッセジを弁護士に託し、母を励ました。
〈さすが自慢のママです〉
〈ママかっこいい!!〉〈ファイト!!〉

こうした支援があるとはいえ、取り調べの時は、たった一人で検察という強大な組織と向き合わなければならない。孤独な戦いだ。

厚労省が捜査への協力を方針として打ち出していたこともあり、村木さんは黙秘はせず、検事の質問にはできるだけ丁寧に答えた。事情を説明する調書の作成には応じた。そのうえで、事実に反する記述については、粘り強く訂正を求める、柔軟な対応で臨んだ。

にもかかわらず、自分が話した内容とはまったく異なる調書に署名を求められたこともあった。部下の上村元係長などについて、言ってもいない悪口が書かれていた時には、「これは、私と全然人格が違う人の調書です」とサインを拒んだ。その毅然とした態度に、検事は「これは検事の作文です。筆が滑ったところがあるかもしれません」と認め、書き直した。

村木さんは、緊張のあまり、取り調べの期間中は、ほとんど涙も出なかった、という。泣くことで、その緊張が途切れて自分が崩れ落ちてしまうのも怖かった。

それでも、検事の心ない言葉に涙したことはあった。たとえば、検察側のストーリーを認めさせたい検事から「執行猶予がつけば大した罪ではない」と言われた時。「検事さんにとっては『大したことない』かもしれませんが、私にとっては罪人になるかならないか、公務員として三十年間やってきたことについて信用を失うかどうかの問題なんです」と泣いて訴えた。

取り調べが始まって十日後、担当検事が交代した。新しい検事は、上村元係長に無理やり「村木指示」を認めさせた國井検事。どうしても検察側ストーリーを受け入れない村木さんに、“実績”のある検事を当てたらしい。

國井検事は思い込みが激しい人だった、と村木さんは言う。ノンキャリアの役人は常にキャリアと対立しており、役所は国会議員からの依頼はすべて受け入れ、議員が役所に紹介してくる団体はろくでもないところばかりだ、という前提で供述を求めた。あまりに村木さんの実体験とかけ離れていた。

村木さんは手帳と業務日誌で、自分の仕事を細かく記録している。そこには、当時の与党の大物議員から
「この団体に補助金をつけてくれ」と頼まれ、断ったことも記載されていた。それを元に役所での仕事の仕方を話し、「証明書の場合は、民聞の人が訪ねて来ようが、議員さん経由で来ようが、やることは同じなんです」と説明しても、國井検事は納得しなかった。
「そんなはずはない。議員から頼まれたからやるんであって、そうでなければやるはずない」の一点張り。役所では議員から頼まれれば違法なことでもやる、と信じ込んでいるようだった。

村木さんは、「法務省や検察庁は、そういう仕事のやり方をしているのでしょうか」といぶかしむ。

國井検事とは、まともな会話が成立しなかった。村木さんはできる限り下を向いて、ハンカチを握りしめながらひたすら耐えるしかなかった。

検察が、こんな無理な捜査をしても村木さんを逮捕した理由を、地元大阪の記者は次のように語る。
「大阪地検は、東京地検への対抗心から、中央官庁の官僚、あるいは国会議員を逮捕したいと躍起になっていた。今回の事件では、政治家が逮捕できるという期待もありましたから」

捜査対象の政治家として名前が挙がった石井氏は、一部のメディアで事件への関与を実名で報じられた。しかし証人として法廷に呼ばれた同氏は、一切の疑惑を否定。それどころか、検察側が、倉沢元会長が石井氏に依頼をしたとしている日には、ゴルフに行っていたことを明らかにした。石井氏の手帳、ゴルフ場への照会で、証言は裏付けられた。

検事側が、石井氏に事情を聞いたのは、村木さんを起訴してニカ月以上経ってから。その際、石井氏は手帳を持参していたのに、倉沢氏から依頼があったとされる日に何をしていたのか確認しようとさえしなかった。

取り調べメモを廃棄

そんな杜撰な捜査でも、供述調書さえ取ってしまえば、裁判で有罪に持ち込める──この検察の“自信”は、これまでの様々な事件で、裁判所が検察の調書をすんなり証拠採用し、有罪判決を勝ち取ってきた、という経験から生まれているのだろう。

ところが今回の事件では、検察側証人となった関係者が次々に証言を翻したために、検事が六人も検察側証人として出廷せざるをえなかった。いずれも、適正な取り調べの結果、自発的に供述をしたという趣旨の証言を行った。ところが、その六人が揃いもそろって、取り調べの時に作成したメモを廃棄していたことが明らかになった。

メモを見れば、調書が本人のナマの供述をどれだけ忠実に反映しているか、検事の作文にすぎないのかを判断する手がかりになる。警察官の捜査メモに関しては、すでに公文書として証拠開示することを命じた最高裁の判例もある。検察も捜査機関であり、当然、この判例に従うべきだ。

にもかかわらず検察がメモを廃棄していたことに、裁判官たちは相当に衝撃を受けたようだ。繰り返し検事らに廃棄の理由を尋ね、
「供述の信用性を担保するため、メモは残しておくべきだったのではないか」と詰問する場面もあった。

こういう検察側にも、無罪判訣が出れば控訴をして、最終判断を先送りする権限が残されている。そうなれば、村木さんの職場復帰、社会復帰は、さらに遅れる。

村木さんの次女は、母の逮捕当時は高校三年だった。受験生にとって大事な夏休み、大阪にウィークリーマンションを借り、毎日拘置所を訪ねては、取り調べが終わった後も勾留が続いていた母に面会した。わずかな面会時間、いつも明るく楽しい話をして、村木さんを笑わせた。その間、心配させまいと家族の前で一度も涙を見せなかった次女だったが、昨年十一月、村木さんが保釈になった時には、ホテルの部屋に入るなり、抱きついて号泣した、という。事件の影響もあってだろう、今年春の大学受験はうまくいかず、今は浪人生だ。

証拠もないのに、検察が自らの面子のために、村木さんをさらに被告人席に座らせるようなことになれば、次女ら家族の苦しみもさらに引き延ばされる。

これでは、検事は多くの国民の信頼を失うだけだ。潔く負けを認め、今回の失敗の原因を自ら検証し、反省をすることで、信頼回復を目指してもらいたい。

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