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マッセOsaka セミナー講演録集2006 2007年3月より転載

 

第62回マッセセミナー

 
 

ユニバーサル社会への実現に向けて
〜すべての人が誇りをもって生きられる社会に〜

 
 

 

 

社会福祉法人プロップ・ステーション 理事長
竹中 ナミ 氏

竹中ナミの写真 ■略歴■
重症心身障害児の長女を授かったことから、日々の療育のかたわら障害児医療・福祉・教育について独学し、challenged(障害を持つ人達)の自立と社会参加を目指して、手話通訳、視覚障害者のガイド、重度身体障害者施設での介助・介護等のボランティア活動に専念。1991年5月にITを利用した障害者就労支援施設であるブロッブ・ステーションを設立。1998年9月、厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得。本部を神戸市内に置き、理事長に就任。公職多数。主な著書として、『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)、『ブロッフ・ステーションの挑戦』(筑摩書房)などがある。
 

1.はじめに

 皆さん、こんにちは。ご紹介いただきましたプロップ・ステーションの竹中ナミこと、ニックネーム「ナミねぇ」です。よろしくお願いします。控え室で突然、司会をしてくださるかたに、「申し訳ないけれども、『ナミねぇ』というニックネームで呼んでな」とお願いをしました。日ごろから仲間や友達、あるいは支援してくださっているかたが「竹中さん」と言うことはほとんどなくて、「竹中さん」と言うと「だれ? そんな人」みたいな感じで、全員に「ナミねぇ」と呼んでいただいているので、今日もぜひ皆さんからナミねぇの話をちょっと聞いてやろうという雰囲気でお聞きいただければうれしいです。

  今日、私は初めてこの研修会に講師として参加しましたが、大阪府内の多くの市町村から、これだけたくさんの職員の皆さんが集まられて、公務の一環としてここにお座りになられている、自分で講演会にお金を払って時間外に勝手に聞きに来たということではなくて、公務ですので、多分ナミねぇがしゃべったことの中から仕事に役立つようなものをちょっとでも持って帰らなくてはいけないという使命を帯びていらっしゃると思います。だから、ちょっと緊張しています。ご自分が志願してというか、この講演会に行きたいといって来ていただいたかたにはもちろん、職場の指示といいますか、「おまえ、今日はこの講演会に行け」と言われて来たかたにも、ぜひ来てよかったと思っていただけるように、最後まで頑張ってプロップの活動、あるいは私の思いをお伝えしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 


2.チャレンジド(Challenged)とは

 「チャレンジド」と「ユニバーサル社会」という言葉は、どちらも横文字で、横文字に抵抗のあるかたからすると「何じゃらほい?」ということなのかもしれませんが、この両方の言葉について、その意味をよく知っているというかたは、手を挙げていただけるでしょうか。まず、チャレンジドという言葉はいかがでしょうか。お二人ぐらいですね。ありがとうございます。では、ユニバーサル社会はどうでしょうか。これも少数派ですね。では、両方ともよく分かりませんというかた。ありがとうございます。 87人のかたが手を挙げていただきました(笑)。多数のかたがこのどちらの言葉もご存じないということです。

  私も、日本に生まれて、日本の言葉で生活してきた人間ですから、本当は日本語でいろいろな活動の中身をご説明できるようになりたい、あるいはそういう社会であってほしいと思ってはいるのですが、実は皆さんよくご存じのバリアフリーとかノーマライゼーション、ユニバーサルデザイン、あるいはユニバーサル社会もそうですが、これらは全部横文字です。この言葉が日本に入ってきたのは、特にバリアフリーは、30年前ぐらいだったでしょうか。そのころから公務員をされていたかたは今日は少ないかもしれませんが、そのころは、日本の役所はワープロで打った文書は正式文書とは認めなかったのです。全部手書きで、なおかつサインも手書きで赤い判こが押してあるものが公文書であるということで、赤い判こだけは今も残っていますが、一切ワープロ打ちはだめだったのです。ましてその中に横文字みたいなものが入っていると、これはできるだけ使わないようにということで却下されたという時代でした。

  今の日本の法律の名前は、サブタイトルにバリアフリー法とか、今はエコツ一リズムとかといわれたりして、バリアフリーの法律も、実は移動の円滑化に関する何とかという長ったらしい名前で、まだ国の法制局は横文字の法律名を認めていません。そんな時代だった30年ほど前に、このバリアフリーという言葉が入ってきたのです。当然、「日本語に直せ」と言われました。バリアフリーはまだ障壁の除去ということで何とか日本語にできていたのです。ところが、ノーマライゼーションになるともうだめです。障害があろうがなかろうが、いろいろな人が一般社会の中に共にいることがノーマルであるという考え方を、日本では一言では言えないのです。それでも普通化とか普遍化とか、いろいろな言い方をしようとしましたが、結局言えないということで、バリアフリーはバリアフリー、ノーマライゼーションはノーマライゼーションで定着した頃にユニバーサルデザインという言葉が入ってきて、横文字にすることに違和感を持たなくなっていましたので、ユニバーサルデザインという言葉が皆さんの耳に普通に届く状態になったわけです。

  私たちはチャレンジドという言葉を障害者に代わる新しい呼称として使わせていただいているのです。このチャレンジドという言葉は、アメリカにいらっしゃるプロップの支援者のかたが、11年前に私に教えてくれたものです。「最近、アメリカではハンディキャップドとかディスエイブル・パーソンという呼び方をやめようという動きが起きていて、幾つか呼び方が生まれた中の一つに『the Challenged』というものがある。これが割とポリティカルに今よく使われている」と教えてくれたのです。「チャレンジドって何ですか」と私は聞きました。チャレンジャーだったら挑戦者ですから何となく日本語のイメージが分かりますよね。けれども、チャレンジド、最後に「ド」がついている意味が分からない。私は関西人ですから、どあほとか、どけちとか(笑)、「ど」がつく言葉は知っているのですが、大体頭につきます。「しっぽにつくのは一体何ですか」と私が聞くと、「Challengeというつづりの最後にedがついて受け身体の言葉だ。挑戦する使命、あるいは課題、あるいは挑戦する資格やチャンスを与えられた人という意味で、受け身体になっている言葉です」と教えてくれたのです。アメリカのことですから、神からというような意味があるのでしょう。

  ハンディキャップドもディスエイブル・パーソンも、その人のマイナスのところや不可能なところに着目している呼び方です。ディスエイブルは可能を否定しているわけです。アメリカでは、ちょうど15年ぐらい前から、人間の呼称としてその人のマイナスや不可能なところだけに着目した呼び方をするのは、人権の国アメリカとしておかしくないかという議論がわき起こって、呼び方をみんなで考えていきましょうという中に幾つかの呼び方が生まれて、定着してきたのがチャレンジドだということでした。

 


3.阪神・淡路大震災での経験

 また、その人は、「このチャレンジドという言葉は、日本で障害者と呼ばれている人たちのことだけではないのだよ。例えば、震災があって、その震災復興に立ち向かっている人たちはチャレンジドだという言い方もする」とも教えてくれました。

  実はこの言葉を聞いたのは11年前だと言いましたが、私は生まれ育ちは神戸で、もともとは神戸っ子なのです。プロップ・ステーションの活動も、初めのころは大阪でやらせていただいていたのですが、今は本部も神戸の東灘の六甲アイランドにあります。自宅は神戸の東灘の魚崎北町です。 11年前のあの阪神・淡路大震災で、私の家は全焼してしまいました。プロップ・ステーションの活動は阪神間で起こしたものでしたから、仲間全員が被災者という状態で、それは悲惨な状況でした。皆さんも公務員ですから、いろいろな形でかかわられてご存じだと思います。どうやって復興したらいいのだろうか、どうやって助け合ったらいいのだろうか、元の生活をどうやって取り戻したらいいのだろうかということで、考えることが難しいぐらいパニックといいますか、頭が真っ白な状況にあった中で、たまたまアメリカの支援者の人からチャレンジドという言葉を聞き、なおかつこれは日本で言う障害者だけでなく、震災復興に立ち向かう人も含めて幅広く呼ぶ言葉だよと教わったのです。

  私はこの言葉を聞いた瞬間に、とても元気になりました。なぜか。この言葉の意味というか、この言葉に込められている哲学を、私はすべての人に自分の課題に向き合う力が備わっていて、課題が大きい人にはその力がたくさん与えられている。だから、あなたは自分の課題に向き合うことができるのだよという意味合いだと感じたからです。

  この言葉は、きっとそこから生まれてきたのだろうと考えたときに、どうやって復興したらいいか分からないし、今どうやって助け合ったらいいか分からないけれども、あなたはこの現実に向き合える人だよと言われたように感じて、それが私にとってすごい力になりました。そして、被災者になった仲間たちに、「こういう考え方のこういう言葉がアメリカでは生まれて使われているらしい」と伝えたところ、みんなにもすごく勇気がわいてきたのです。

  私たちは、コンピュータを使ってパソコン通信などで交流を始めて活動を続けていたのですが、仲間の中には天井が落ちてくるかもしれないという状態の中でベッドの上にいる人や、あるいは瓦礫の中からパソコンを引っ張り出してスイッチを入れたという人もいましたが、そういう中で彼らは「僕は生きている」「私はここで大丈夫だった」ということをまず発信したのです。そして、それを受け止めた人が「私も生きているよ」「僕も生きているよ」と伝え、その次には「だれそれさんは大丈夫だったんやろうか」「無事やったみたい」「だれそれさんはどこそこの避難所に行かれたみたい」「だれそれさんはけがをされたみたいやけどどうかな」という話が飛び交いました。

  そして、その次に起きたことは、「今日はどこでお水がもらえるんやろう」とか、「お弁当を配ってはるそうやけど、どこに行ったらいいんやろうね」「お湯を沸かしてくれるところがほとんどないけど、車いすの人間でもお湯を使わせてくれるようなおふろ屋さんで開いているようなところはないかね」というような情報交換が飛び交う。そして、あるときは避難所になった養護学校でおしめが足りなくなったということをだれかが書いたところ、なんとその言葉がいろいろな通信にずっとつながっていって、東京の紙おむつのメーカーから1000箱以上の紙おむつが届けられたということもありました。

  それから、大阪の青年会議所という若い経営者のお兄ちゃんたちのグループがあります。あの震災のあと、実はそのお兄ちゃんたちが被災地に入ってすごく協力されたのですが、それがなぜできたかというと、その当時まだ高価で一般の人がほとんど使っていなかった携帯電話を、彼らが持っていたからです。電話が途切れて連絡が取れないという状況の中で、その携帯電話を使って「おまえところ、たしかブルーシートを扱っとったな。それ持っていかへんか」とか、「おまえところは歯ブラシを扱っとったやないか。それ持っていかへんか」と、復興支援をされたのです。

  そして、自分は寝たきりで介護を受けながら、そのベッドの上のテーブルにノートパソコンを置いて通信をしていた私たちの仲間も、そのボランティアの活動に加わったわけです。その当時、それは情報ボランティアと呼ばれました。今、日本ではパソコンボランティアという言葉は当たり前になって、全国各地にパソコンボランティアのグループがありますが、実は日本で最初のパソコンボランティアの活動は、被災地にいた重度チャレンジド自身の指先から始まったのです。自分は障害者ではなくチャレンジドだという思いを彼らが持ったことが、この行動のすごく大きなきっかけだったと私は思っています。私自身も障害者の親なのですが、でも、そのチャレンジと向き合える人間だと思った。その思いが仲間たちに伝わって、仲間もそういう行動を執ったのだろうと確信しています。

 


4.言葉の重要性

 言葉というのは非常に大きな意味を持っているのです。言葉というのは、その国の文化であり、考え方であり、哲学であり、ある意味思想なのです。その国にそういう文化や思想や哲学がないときには、言葉は生まれてこないのです。アメリカでチャレンジドという言葉が生まれたのは、その人のマイナスや不可能なところだけを見てその人の呼び方にする、その人を判断する材料にしようという考え方をやめようというところから生まれてきたことから考えて、今、残念ながら日本に障害者という言葉しかないのは、彼らのプラスのところを見ていこうという文化や考え方が定着していないことを意味するわけです。

  アメリカという国は面白くて、実は時代に応じていろいろと言葉を変えるのです。例えば、皆さんよくご存じの「ミス」「ミセス」という言葉があります。男性は「ミスター」、女性は「ミス」「ミセス」と言っていました。「ミス」と「ミセス」の違いは、結婚しているか、していないかです。あるとき、アメリカの女の人たちは、男だけは生まれてから死ぬまで「ミスター」と呼ばれて、女だけはなぜ結婚しているのとしていないのとでいちいち区別されなければいけないのかと、怒りだしたのです。当時は、アメリカでもそういうことを言い出した女性たちは異端だったそうです。日本でウーマンリブという言葉がありましたが、それと同じように過激な女たちと言われていたらしいのですが、その人たちが「ミスター」に対になる言葉として「ミズ」という言葉を生み出します。「Mr.」に対して「Ms.」、これを女性の総称にしましょうと言い出したのです。初めはそんな過激な考え方によって「ミス」と「ミセス」という文化を変えるのかという抵抗があったのですが、なんと何年かの後には「ミズ」という言葉が主流を占めるようになりました。

  今、私が実際に海外の女性のかたにメールを書く、あるいは海外のかたからご連絡を頂く、やり取りをするときに「ミス」「ミセス」は一切使いません。今は公式な呼び方は全部「ミスター」と「ミズ」です。「ミス」「ミセス」と言うと古くさい人だなと思われるので、皆さんも注意してください。女性に対して結婚している、していないを絶対に区別しなければいけないときに一部使われているだけで、基本的には英語圏ではもう「ミズ」と「ミスター」になっています。

  つまり、それくらい言葉というものは重要なその国の考え方、哲学を表すわけです。そういう意味で、残念ながら日本はまだ、障害のある人たちの可能性やプラスの部分に着目するよりも、その人のここが不利ですね、ここが難しいですね、ここが不可能ですねというようなところに着目をして、その部分に何らかの手当てをしてあげることを福祉、あるいはボランティア活動と呼んでいるわけです。

 


5.日本の福祉の考え方

 皆さんに一つ質問をしたいと思うのですが、皆さんは今日、ここにいらっしゃるまでに朝ご飯、お昼ご飯を召し上がったと思いますが、白い米の飯を食べたいと思ったときに、苗代を作って、もみをまいて、稲を育てて、その育った稲を稲刈りして脱穀して精米したその米を炊いて私は食べていますというかたはいらっしゃいますか。おられませんか。どういうお米を食べておられますか。お米屋さんで買いますか。私はスーパーで二つに割ったら2膳になるような炊けているものを買ったりしますが、それが普通になっています。

  もう一つ質問します。刺身でも、煮つけでも、天ぷらでも、フライでも、何でもいいのですが、魚が食べたいと思ったときには、必ず釣りざおを持って海か川へ行くというかたはいらっしゃいますか。おられませんか。皆さんお店で買いますよね。この間、若い女の子と話をしていたら、魚の姿を見ても一切名前が分からないのです。「何で?」と聞いたら、「魚屋さんに行って切り身しか買わないし、舟に入っている刺身しか買わないから、魚の形を見せられても分からん」と言ったので、サンマぐらい分かるだろうと思ったこともあります。ことほどさようにそうなのです。

  もう―つだけ聞かせてください。今日は皆さん、それぞれにすてきなお洋服を着ていらっしゃっています。全員よくお似合いですが、自分が何か身につけるものが欲しいと思ったときに、糸を織って布にして、デザインして、裁断して、縫ったものを着るというかたは手を挙げてください。一人も今日はおられないのですか。今日はどれにも手が挙がらない。すごいですね(笑)。

  先月、福知山に講演に行きましたら、最初の米の質問には、全体の1割強のかたが手を挙げられて、「農業をやっています」と言われました。去年、舞鶴の青年会議所に招かれて行ったときには、2番めの魚の質問に10人以上が手を挙げられました。若い兄ちゃんだから冗談で手を挙げているのかと思ったらそうではなくて、「うちらは漁師の二代目です。だから魚を釣っています」と言われました。

  そういう所のかたは別として、このように人間社会において文明が進み、科学が発達し、流通の仕組みが進む。それから法律や制度が進んでいく。進んでいけばいくほど、人間は自分が生きていくのに絶対必要な、最低限必要なことも自分だけの力ではやっていないということです。こういうことは、私がこういう例を出して言わなくても、皆さん頭の中では当然だと分かっています。しかし、一般的に自分が障害がなくて、例えば自分の目の前に障害のある人がいらしたら、とりわけその障害が重いといわれるかたがいらっしゃったときにどう感じるかというと、自分は自分で自分のことができるけれども、この人はここが無理だな、あそこは無理だな、ここは不可能だな、大変だろうな、気の毒だな、何かしてあげなければいけないかなと思うのです。あたかもその人よりも自分は何々ができる人という目線になってしまうという、これは日本の福祉のすり込み現象です。

  つまり、この人は障害がいろいろとあるけれども、私と同じようにこの場所でこのお料理を食べるにはとか、この場所で一緒にこれをして遊ぶにはとか、あるいはこの職場で一緒に働くにはとか、もしこの人が自分よりも優秀で上司になるとしたらとか、そのためにはどんな法律や技術やどんな道具やどんな環境整備が必要かと考えるより前に、この人は私より何々ができない、この人はここに不可能があると見てしまう。これは怖いことに、すり込み現象なのです。日本の福祉のベースはそこから出発しています。つまり、弱者という人たちは厳然といる。その厳然といる人たちに弱者ではない人たちが何をしてあげるか。公務であれば、どのように補助金や手当てを税からしてあげるかということを考えるのが、日本の福祉の出発になっているのです。

 


6.「Challengedを納税者にできる日本」というキャッチフレーズ

 日本は、アメリカを経済のお手本にして突っ走ってきました。スウェーデンは日本の福祉のお手本といわれて、福祉大国スウェーデンと言われてきました。この二つの国が、ほかの先進国もほとんどそうなのですが、ある時期にそういう考え方をやめました。どうやめたか。弱者という人たちが厳然とこういう層でいて、その人たちに何らかの手当てをしてあげる、何らかを施してあげる考え方を福祉と言うことから、その人たちの中でできる限り弱者でない人たちを生み出すプロセスを福祉と呼ぶ。そうすることによって本当に弱者と呼ばねばならない状態の人たちを守る原資をみんなで生み出しましょうという考え方に変わったのです。スウェーデンは約35年前に変わりました。

  アメリカもその変化の出発点は、実はケネディ大統領のときでした。ケネディ大統領が大統領になって最初に議会に提出した教書に、「私はすべての障害者を納税者にしたい」とあります。その当時はまだチャレンジドという言葉がありませんでしたから、ハンディキャップドという言葉が使われています。私はそれを、このプロップ・ステーションの活動を始めるころに、翻訳した文書で読んだのです。ケネディ大統領の公約ですよね。公約というか、当選されてから教書に出しているのですから、日本でいうと総理の就任の最初の所信表明みたいなものです。今の我が国はこのような状況にあるということを、防衛や経済、科学、社会保障など、いろいろなジャンルについての現状と自分の思いを述べて、その中に自分の考え方を入れていく。その社会保障の項目の中で「私はすべての障害者を納税者にしたい」とケネディは言ったのです。

  なぜそんなことを言ったのかと、私は不思議に思いました。日本では、障害者福祉というと、その障害を持つ大変気の毒な人たちに税でどれだけの手当てをしてあげるかということですし、困っている人に「私がこれだけ取ってきてあげます」と言う人がりっぱな政治家であり、福祉家だといわれていたわけです。そこで、私はそのバックボーンを調べてみました。そして、あることを知りました。ケネディ家というのは華やかなー族とよく言われています。実際に華やかな―族なのですが、実は親族にたくさん障害を持つ人がいらっしゃるのです。ケネディがいちばん愛していた妹のローズマリーさんというかたは、かなり重い知的なハンディを持たれています。ケネディは、政治家であると同時に一人のアメリカ国民として、人間が、アメリカ人が障害を持って生まれたとき、あるいは後天的にでも障害を持ったときに、一体社会の中でどんな位置づけになるか、おとしめられるか、低い地位に見られるかということを、嫌というほど知っていたのです。

  ケネディがその所信を出したのは1962年2月1日、約40年ちょっと前です。その時代のアメリカは、やっと公民権運動が起きてきて、人種差別の問題などにみんなで取り組もうという気運が高まっていたところで、そこにあの若いケネディが大統領になったのです。そのときに、ケネディは「自分が大統領になったからには、国家の意思として障害のあるアメリカ人が障害のないアメリカ人と同じようにタックスペイヤーになるようにすること、それが国家の義務だ」と言ったのです。この人は障害があるから働けないとか、タックスペイヤーになれないということを規定してしまうこと自身が差別であると、彼は思ったわけです。だから、彼らをタックスペイヤーにするという意思を、少なくともまず国家は持たなければならないと考えて、社会保障の項目にその言葉が入ったのだということが分かって、私はすごいことだなと思いました。

  それで、プロップ・ステーションは、「Challengedをタックスペイヤーにできる日本」をキャッチフレーズにすることにしました。日本の福祉の考え方は、弱者がいて手当てをするというものですから、すぐに政治をしている人たちや行政をしている人たちがそのような大きな転換をすることは難しいだろうし、なおかつ税で手当てをするのが福祉だと言っているときに、重度の障害者に税金を払えと言うのですから、それは石も飛んでくるだろうと思います。けれども、関西のおばちゃんが関西の隅っこから仲間と言うぐらいは大丈夫ではないかということで、そういうキャッチフレーズを掲げたわけです。

  案の定、たくさんの石が飛んできました。攻撃もいっぱいありました。その石や攻撃は、ほとんど福祉の世界から飛んできたものでした。自分たちも同じ福祉にいるよという人たちから、「あんたの言うてることは福祉と違う」と言われました。けれども、私はその人たちに言ったのです。「私は別にこれが善やとか正義やとかと言ってるのではないのです。今まで日本にそういう考え方がなかったから、考え方の選択肢の―つとして、私はこれもありやと思って言わせてもらっています。この選択肢で頑張ってみようかという人と、一緒にやろうよねということでグループ活動を始めているのです。だから、私はいろいろな運動があっていいし、いろいろな考え方があっていいし、あなたがやっている運動、あなたの考え方を決して私はじゃますることもないし、それを非難することもない。だから、あなたも、陰で怒っていてもいいけども、私がこの考え方でやることにじゃまだけはせんといてちょうだいね」という話をして、ずっと今日まで至っているわけです。

 


7.あるラガーマンとの出会い

 では、なぜ私がこういう考え方に確信を持てたかということですが、実はこのプロップ・ステーションを始めたときに、私と一緒にこの活動をやろうと言った一人の青年がいるのです。その青年は、高校生でラグビーをやっていました。すごく優秀なラガーマンで、大学、社会人とラグビーを続けたらきっと世界に羽ばたくラガーマンになるだろうといわれていたほど、いいラグビーセンスを持っていたのです。ところが、ラグビーはけっこう激しいスポーツで、3年生になったときぐらいの試合中の事故で、首の骨を折ってしまったのです。入院して、手術して、リハビリをしましたが、「もうこれ以上リハビリしたってどうもならんし、おうち帰り」と言われたときに、彼が自分の意志で動かせるのは、左手の指先がわずかに上下と首が左右に90度弱だけになっていました。

  もちろん、一時はご本人も家族もすごく落ち込んでおられたのですが、ある日彼は、自分には考える力が残されていたということに気がついたのです。そして、自分を介護してくれているお父さん、お母さんに、「僕は考える力を磨いて、働いて社会復帰したい。」と宣言したのです。普通、寝たきりになって全面介護になった息子がそんなことを言ったって、親御さんは「おまえ、そんな体でむちゃ言うな。父ちゃん、母ちゃんがちゃんと世話したる」とか、「おまえのために何ぞ残したるから、そこまでのことを考えんでええよ」と言っても、不思議ではないですよね。けれども、彼のお父さんとお母さんはそうではなかった。考える力を磨いて働けるようになりたいと言った彼に「ほんなら働け」と言ったのです。しかも「おまえ、働きたいんやったら、わが家の長男やねんから家業を継いで働けるようになれ」と言ったのです。

  実は、彼は「ごっついええうちのぼん」だったのです。ちょっと郡部のほうで広い土地持ちの家の長男さんで、三つの家業をやっておられたのです。その広い土地の半分で農業を、残る敷地の半分で三代続いた植木屋をして、最後の残る敷地には高級マンションを何棟か建てて、マンション経営をしていたのです。彼は、「幾らなんでも農業と植木屋とマンション経営の三つ全部継ぐのは無理だけど、そのうち1個は絶対りっぱに継いで父ちゃん、母ちゃんを食わしたる」と言った。寝たきりの息子と介護しているお父さん、お母さんの会話ですから、これは鬼気迫るものがありますが、本当にそういう会話が交わされたのです。結論から言うと、今、彼はその三つの家業のうちの1個をりっぱに継いでいますし、お父さん、お母さんはまだ健在ですから彼が食わすうんぬんではありませんが、ご一緒に家業を頑張っておられます。 またちょっと質問ですが、彼は一体この三つの家業のうちのどれを継いだか。今、りっぱにやっておられるのはどの家業かという質問ですが、まずそれは農業ではなかろうかと思うかたは手を挙げてください。10人いるかいないかですね。三代続いた植木屋は、もうちょっと少ないですか。では、最後のマンション経営。ありがとうございます。先ほどよりも多いですね。100人近くのかたが手を挙げられました。正解はマンション経営です。

  彼は子供のころから農業も植木屋も手伝っていました。手伝っていたからもちろん誇りにも思っていましたが、農業、植木屋はどうしても肉体を駆使する部分が多い仕事です。だから、マンション経営だったら、もしかしたら経営者としての勉強や経済の仕組みの勉強、それから、その当時まだ日本では一般家庭にパソコンはなかったのですが、企業の経営中枢でコンピュータが使われ始めていました。そういうコンピュータを勉強して、経営に使うソフトを自分で開発したら、マンション経営者だったらやれるのではないかと思ったのです。

  そして、彼はマンション経営者になるべく、大学に進学することを試みたのです。そして、大学に入試の願書を出したのですが、大学はその願書を受け付けませんでした。なぜか。彼は鉛筆は持てないし、消しゴムも持てないし、もちろん手で答案用紙をめくるわけにもいかないし、試験会場に来るにも一人では来られないのです。だから、大学は「君みたいな体の人が試験を受けること自身が無理だから、あきらめてちょうだい」と、もう20年近く前の話ですが、言ったわけです。

  彼は後日、「自分に重い障害が残って一生寝たきりかもしれない、一生介護を受ける身になったかもしれないということが分かったときもショックだったけれども、入試の願書を突き返されたときのショックは、ある意味それ以上だった。自分に残されたわずかな可能性、未来の希望は、考える力を磨いて働きたいということだったから」と言っていました。その入り口で、試験を受けて成績が悪いから来てはいけないと言われたのなら、来年、再来年と希望があります。けれども、「君は学問をすること自身無理だ」と言われてしまった、「それがすごくショックでした」と言っていましたが、さすがにラガーマンで、彼はあきらめなかったのです。何回も大学に要望を出しました。

  そうするうちにある日、彼はある方法があることを思いついたのです。 日本では、パソコンが一般家庭に普及する前にワープロ専用機が普及しました。文字を打つ道具です。今はパソコンが文字打ち機能を全部やりますから、ワープロ専用機は日本では1台も製造されなくなりました。でも、その当時はパソコンは一般家庭になかったけれども、ワープロ専用機が先に一般家庭に普及していたのです。そして、彼は寝たきりのベッドの上で、そのわずかに動く指先でワープロ専用機を使って、自分の思いをつづる日記を書いたりするということをしていたのです。だから、彼はこのワープロ専用機を試験会場に持ち込んで、フロッピーで問題をもらうことができたら、自分は鉛筆が持てなくても、消しゴムが持てなくても、あるいは答案用紙をめくれなくたって試験を受けることができると考えて、それを大学に提案しました。何とかこの道具を持ち込んで、試験を受けさせてくれと言ったのです。

  さて、大学の返事はどうだったと思いますか。そうですよね。丸だろうと思う人。温かいかたですね。それでもだめだったのではないかという人。冷たい人が多いですね(笑)。だめだと言われました。その理由は何だったか。おなじみの言葉ですが、「前例がない」と言われたそうです。「試験というのは鉛筆と消しゴムを持って、いわば身一つでチャレンジするものだ。機械を持ち込むような、そんな前例のないことを君だけに認めるわけにはいかん」と言って断られたのです。

  でも、こうしたらきっと試験が受けられると思って、彼はあきらめなかった。彼だけでなく、彼の友達も、家族も、ラグビー仲間も、頼むから彼にチャンスをやってくれ。成績が悪くて落とすのはかまわない。彼は根性のあるやつだから、また来年、再来年挑戦する。だから何とかチャンスだけは奪わないでやってくれと言ってみんなが頼んでくれたことで、最終的に大学はOKしました。そして、彼は日本で初めて大学入試にワープロの機械を持ち込んだ青年になり、そして見事に合格したのです。彼の大学4年間は、もちろんご家族も支えましたが、ラグビー仲間や先輩、後輩たちが介護のチームを作ったりして、みんなが支えました。

  彼は大学4年間、経済と経営の勉強をしました。もちろんコンピュータも勉強したのですが、その当時のコンピュータは、今のようにマウスでクリックすれば動くようなものではなかったのです。例えばデータベースといったら、データベースそのものから作らなければいけないのです。ですから、彼は大学4年間だけでは自分が納得する経営のためのソフトを作れなかった。それで大学院に挑戦して大学院にも行って、大学院の理工学の博士課程を修了して、自分なりに経営で使うデータベースを作り上げて、いよいよ経営者を始めたのです。

  彼がマンション経営者になってしばらくして、私に「ナミねぇ、経営はなかなかうまいこといってるから、ちょっと遊びにきいひん?」と電話がかかってきました。私は実はコンピュータは全然だめなのです。プロップ・ステーションの活動を15年やって、活動の中ではコンピュータを使っているのですが、私自身は全然だめで、いまだに両方の指1本ずつで字を打っています。だから文章を作ることとメールすることしかできないのですが、その私が、コンピュータを使って経営を始めた彼のところへ行ったのです。

  彼はそのわずかに動く指先で操縦する電動車いすに乗って、田んぼのあぜ道の間と雑木林を抜けて、私を彼のマンションの管理人室に案内してくれました。そこに入ると大きな机があって、その当時、まだ珍しかった机の上に乗るサイズになった業務用のコンピュータが置いてありました。彼はそれを指先で操って、「僕、こんなソフトを作ってん。見て」と言って見せてくれたソフトは、自分のマンションを経営するためのかんぺきなデータベースでした。何棟かのマンションにそれぞれ十数軒ずつですから、そのマンション群の中でも100人以上のかたが生活されている。その一人ひとりのようすや、どのおうちからどんなクレームが出てこんな処理をしたとか、お家賃が滞っていないかとか、夜逃げした人はないかといったことが全部入っています。そして、引っ越しするおうちがあったら、取り替える畳や壁紙をどこの業者さんに言って、どんな見積もりでどう出てくるみたいなことが、全部指先一つを動かすだけで分かるようになっていたのです。

  私はびっくりしました。彼とはすごく親しかったので、親しい仲には礼儀がありませんから、ちょっと彼に意地悪を言ったのです。「君、すごいな。すごいけど、データベースだけでは管理人の仕事はできへんのんちやうの。廊下の掃除もあるし、飾ってあるお花の世話も要るやんか。そんなん君できへんやん。どうすんの」と言ったのです。そうしたらなんと彼はにっこり笑って「いや、心配要らんねん、ナミねぇ。僕の住んでるこの地域には、知的ハンディの人たちのグループなんだけど、お掃除やお花の世話などをきっちりやってくれるところがあるねん。そこに僕は経営者として募集かけて、何人も面接していちばんしっかりやってくれるところの人を雇用主として雇って、その人らの給金のことから税金のことからマンションの収入のことから税のことから、全部それもこのソフトでやってんねん」「すげえなあ。君そこまでやってんのか」と私は言いました。「マンション管理人になったと思って見に来てみたら、なんと君は青年実業家じゃないかしら」と私は言ったのです。

  すごいことに、彼の横でお父さん、お母さんがニコニコ笑って、「うちの息子、ようやりまっしゃろ」と言って、「このマンションね、ええ人らがようけ入ってくれてまんねん。募集のチラシ作るのから、来た人をちゃんと受け付けてするのから全部彼がやりまんねんで」と言って、「あんた何か困ることないの」と私が聞いたら、「うん、別にマンション経営者で困ることは何もない」と言うのです。それからちょっと考えて、「1個だけ困るな。このごろマンションに住んでいる住人の子供さんにけっこう悪がきが多い。僕が電動車いすで通ると石を投げるようなやつがおって、すぐくるって振り向いてひいたろかと思うねんけど、電動車いすのスピードは遅いから、追いつかへんで悔しい。困ってるのはまあそれぐらいかな」と言うので、「すげえなあ、君な、すげえなあ、格好ええわ」と私は言いました。

  言いながら、あれっと思ったのです。彼のような人は、起きるときから介助が要るのです。顔をふくことも、食事のことも、入浴することも、下のことも。おしっこは管を通しておられて乗っている車いすにタンクをつけておられます。大のほうは週に何回かお部屋の1室にブルーシートを敷いて、腸まで届く浣腸器があるのですが、そういうものでご家族が排便介助されておられます。そういう人は、それまでの日本ではかわいそうで、気の毒で、ご不幸で、大変な重度障害者でした。そして、そういう家族がおられるご家族も「さぞ、おつらいでしょう」「ご苦労です」「お気の毒ですね」と言われるだけの家族だったのです。それなのに私の目の前にいるのは青年実業家です。もちろん、介護は要ります。けれども青年実業家で、本人は目をキラキラさせてソフトの説明をして、横でお父さんとお母さんが「うちの息子、ようやりまっしゃろ」と笑っているのです。

  なぜ日本のここでこんなことが起きているのだと思いました。考えてみると、理由は三つでした。一つめの理由は、彼自身が自分の力を世の中に発揮して、それを仕事につなげる、働くということをずっと目指し続けて、強い思いを持っていたということです。二つめは、彼の友達、家族、彼を応援する人、みんなが「おまえ、そんな体で働くなんてむちゃや、無理や、不可能や」と言うのではなくて、むちゃかも分からないけれども、無理かも分からないけれども、不可能かも分からないけれどもやってみろと言って、背中を押したことです。そして三つめは、彼が乗っている電動車いすもそうですが、とりわけコンピュータという道具があったことです。彼のわずかに動く指先で、彼の考えたことを世の中に表現するそのコンピュータです。先ほどから言っているように、その時代は日本ではコンピュータがまだ一般的な道具ではありませんでしたから、こう言い換えることもできます。その時代の最高の、最先端の科学技術です。本人の意志と、その意志をバックアップする周りの人の力と、その時代の最高の科学技術、この三つが組み合わさったことで、彼はかわいそうで、ご不幸で、気の毒な重度障害者ではなくて、障害があって介護も必要だけれども、青年実業家として私の前にいるのだということが分かったのです。

 


8.プロップ・ステーションの始まり

 それに気づいたときに、私は彼に「今までの日本の福祉って、ごっついもったいないことをしてたね」と言いました。今「もったいない」という言葉が見直されていますが、何がもったいないって、人間の力が眠っているほどもったいないことはないというのが私の持論です。そういう意味で、なんて日本の福祉はもったいないことをしていたのだろうと思いました。 日本人が冷たいわけではありません。残酷な人たちばかりでもありません。むしろ心優しく助け合うという人が多いと思うのです。だから、障害のある人たちに対しても、もちろん差別もあるでしょう。けれども、いざ自分が直接にかかわったときに、自分が何かしてあげられないか、何をしてあげたらいいのだろうと思う人が多いわけです。その何をしてあげたらいいのだろう、自分に何が手伝えるだろうという気持ちは絶対に失ってほしくないのですが、その気持ちを持って着目するのがマイナスのところ、不可能なところ、自分より何々できないというところだけのときは、結果としてその人の可能性にふたをしていたということに、私は気がついたのです。それを私はもったいないことをしていたのだと感じました。

  それで私は彼に、「私な、新しいボランティア活動始めるわ。私な、たくさんの障害のある人とおつきあいをしてる。その人たちの中で君みたいに仕事をしたいと思ってる人もようけいてるねん。あるいはこの子に仕事をさせてやりたいと思っている家族もようけいてるねん。だけど、障害があるから無理やという人とか、作業所しかないという人らもようけいてるねん。だから、私がやりたいボランティア活動は、その人のマイナスのところに着目するのではなくて、その人の障害の陰に隠れて見えにくいかも分からんけど、その人がやりたいこととか、何々を磨けばこうできるかも分からんという可能性のほうに着目して、人の力と最新の科学技術を使って全部それを世の中に引っ張り出す。できればそれが仕事にまでつながるというようなそういうボランティア活動をしてみようと思うけど、どうや」と言いました。そうしたら彼は「僕もやりたい」と言ったのです。

  なぜなら、彼が入院してリハビリをしていたのは専門病院でしたから、彼のようなスポーツ事故、交通事故、自殺未遂、難病、あるいは生まれついての障害がいろいろな事情で重くなられた、いろいろなかたが担ぎ込まれてきます。そして、手術をしたり、リハビリをしたりして、それでもやはり介護が必要だという状態で帰られた人の、ほとんどすべてが元の学業に戻れていない、元の仕事に戻れていない、ましてや新しい仕事には就けていないというのを、彼はいっぱい見たのです。それが自分は悔しくて残念だと思う。けれども自分は今、人の力とコンピュータの力でこうやって働いている。だから、僕以外にもたくさんそういう人ができるように、僕も頑張ってみたいと言ったのです。

  それで、私は彼に「ほんなら一緒に始めよう」と言いました。でも一緒に始めるのだったら、二人だけでは心もとないからグループにして、今までのボランティア活動の考え方とは全然違うのだけれども、今までの障害者のお手伝いのようにお手伝いしてあげますよではなくて、仕事をしようというような活動にして、それでもよかったら一緒に活動をしようという障害者の人はこの指とまれということで、グループを作ろうと話し合ったのです。そして、グループを作るのなら、やはりグループの名前が要るということになって、私は彼にグループの名前は何かいいものはないか聞きました。彼はすかさず「プロップにしてくれ」と言ったのです。

  私を見てお分かりかと思いますが、実は私は子供のころからすごいワルで、小学生のときの趣味が木登りと家出で、中学になったらバリバリの女番を張っていたという人間で、何が嫌いって勉強が嫌い、何か苦手って英語や数学がだめだったのです。その私に「プロップ」という横文字を使うので、「何やそれ。横文字やめようや。何やのん。そのプロップって」と私は彼に言いました。そしたら彼が「いや。これは僕がラグビーをやっていたときの誇りあるポジション名やねん」と言ったのです。プロップというポジションは、ゴールをするような華やかな場所ではないのですが、スクラムのときにいちばん下から支える、がたいが大きくて、いろいろな意味で活力とセンスの要る部分なのですが、その役を彼はしていたのです。逆に言えば、けがの多い役です。それで彼は首の骨を折ったのです。その自分がやっていたプロップという誇りあるポジション名を、グループの名前にしてほしいと言ったのです。

  それで、私はまた、親しき仲には礼儀がないですから、言ったのです。「あんな、気持ちは分かるけどな、私らラグビーチーム作るんちやうから。どうしてもその名前にしたい言うんやったら、意味調べて、その意味が私らがやろうと思っていることに合致して、なおかつ君のポジション名やったというたらそれはOKやから、そうしよ」と言いました。すぐに彼は調べました。「prop=プロップ、支柱、つっかえ棒、支え合う」という意味があったのです。考えてみればスクラムを下から支える。私は特に支え合うというのがすごく気に入って、 「すごい意味があったんやな。よっしゃ、プロップにしよう」と言ったのです。

  私がいます。彼がいます。彼はコンピュータ技術を持っているのです。私はコンピュータは嫌です。彼はまた、経営者能力を持っていますが、私にはそんなものは毛頭ありません。けれども、彼はスポーツマンでしたからシャイで口下手なのですが、私は口と心臓はギネス級なのです。そういう二人がお互いの苦手なところを突っつき合いしたら何もできません。けれども、とりあえず苦手なところには目をつぶって、得意なところをお互い100%出して組み合わさったらけっこうすごくないか。つまり、私らがやろうと思っているプロップの活動というのは、今までの日本の、障害者は支えられる人で、そうでない人が支えるという概念をチャラにしよう。障害があるとかないとか、男だ女だとか、若いか年を取っているかとか、そういうことではなくて、人間みんなが自分の持っている力は全部出す。そして、何かするときに苦手なことは得意な人と組む。こういう新しい考え方、新しい福祉、新しい働き方を創出しようということです。つまり、みんなが助け合いできる、みんなが支え合いできるという考え方なのです。あなたは支えられる人で、私は支える人ではなくて、みんな支え合いできるのだという考え方でやりましょうということだから、プロップに支え合うという意味があったのは、まさに天の啓示ではなかろうか、「君、偉い」と急に言ったりして、それでプロップ・ステーションという名前になりました。

 


9.活動のきっかけ                

 では、そもそも私が彼のような人と出会ったこと、あるいは私自身がこのような活動を目指していることの理由は何かということですが、私には子供が二人います。上が男の子で今年の7月に36歳になりました。下が女の子で、この2月に33歳になりました。

  ちょっとまた質問させていただきたいと思います。この質問にはできるだけ温かい気持ちで答えていただきたいのですが、ナミねぇはとてもそんな大きな子供がいるようには見えないというかたは手を挙げていただけますか。ありがとうございます。99%のかたです。さすが市町村職員でいらっしゃいます(笑)。

  私は団塊の世代です。そして、子供がそういう年齢です。その上の兄ちゃんではなくて下の娘が、実は私がこういう活動をしている、ひいては今こうやって皆さんの前で何か偉そうにマイクを持って、話させてもらっている理由をすべて作ってくれたのです。娘は、33年前に重症心身障害ということで、大変重い脳の障害を持って授かりました。ご存じのかたも多いと思いますが、重症心身障害というのは一つの障害ではありません。複数の障害が重く重複しているような人のことを重症心身障害者と総称で呼んでいるのです。

  では、私の娘はどんな障害が重くて重なっているかというと、まず目、視覚なのですが、明るいことだけが辛うじて分かる全盲です。物の形は一切見えません。耳、聴覚は、音は聞こえていますが、その音が意味することは一切分かりません。だから、私が話しかけているのか、ほかの家族が話しかけているのか、テレビやラジオでニュースをやっているのか、天気予報をやっているのか、漫才をやっているのか、そういうことは一切分かりません。そして、声は出ますが、言葉は一切出ません。赤ちゃんは生まれたときはしゃべりませんが、いつの間にかしゃべるようになっていますよね。私は上のお兄ちゃんしか育てた経験がなかったので、そんなものだと思っていたのです。初めは赤ちゃんはしゃべらないけれども、いつの間にかしゃべるようになっているのは当たり前の常識だと思っていたのです。ところが、下の娘はそうではありませんでした。

  皆さんに聞きます。私は生まれてすぐにしゃべったという人はいますか。生まれてすぐに「お母さん、ちょっとおっぱい吸わせてください」と言ったという人はおられませんか。おられませんね。みんな多分しゃべれないけれども、いつかしらしゃべるようになった。あるいは聴覚に障害があっても、言葉というものが存在して、手の動きや文字がコミュニケーションの手段になるということはだんだん分かるはずですよね。なぜだと思いますか。なぜ赤ちゃんは初めはしゃべれないのに、しゃべるようになるのでしょうか。それは学んでいくからなのです。

  私は勉強はあれだけ嫌いだったのに、自分の娘を授かってから初めて勉強しました。情報が欲しい、知識が欲しい、なぜだろうということを自分で知りたい、納得したい、自分が彼女にどうしてやったらいいのかを覚えたい、理解したいということで、初めて勉強したのです。その中で、とりわけ脳というのは、頭の中にあって全然見えませんから、重い脳の障害とは一体何なのだということで、必死で勉強しました。貧乏ですから、医学書のようなものを買うお金はありませんでした。あれは高いのです。ですから、大学の図書館に自分が本を借りにいくことなど、昔は想像もしたこともありませんでしたが、そうやって本を借り歩きました。

  それで分かったことは、これは比喩なのですが、人間の赤ちゃんは生まれたときには脳は空っぽのコップのようなもので、それがお母さんや周りの人が話しかけることによっていっぱいになっていく。あるいは、周りのいろいろな状況が、お水がコップに入るようにどんどんインプットされていくのです。そうしていっぱいになって、そのまま入れ続けたらあふれます。そのあふれたアウトプットの一つが言葉なのです。つまり、先にここにいろいろとたまっていく、覚える、学ぶということが必要だったのです。ところが、うちの娘の場合は重度の脳障害で、コップの底に穴が開いているのです。だから、一生懸命注いでも、たまっていかなかったのです。学習をすること、学ぶことが蓄積できない。それで彼女はしゃべれないのです。

  体のほうも小さくてぐにゃぐにゃでした。後ろ向けに半分にぺたんと折っても、ぐにゃぐにゃですから痛くないという状態です。それでもちょっとずつ、ちょっとずつ、しっかりしてきまして、33歳の今は、手を引くとだいぶ歩きます。時々手を離しても、何歩か自分でも行くのです。ほうっておくとぽてっとこけますけれどもというような感じですが、そのように成長しました。でも、この成長は、考えてみると、上のお兄ちゃんが生まれてから1年ぐらいの間にぐんぐんと達成した発達の道筋の途上に、33年かけてまだいるようなものです。発達の速度がすごく緩やかなのです。だから、ちょっとした変化を見せてくれるのに、すごく年月がかかるのです。笑顔が見られるようになるとか、ご飯をおいしそうに食べたとか、ちゃんと飲み込めたとか、そんなわずかな変化にすごい年数がかかるのです。長い年月かかってちょっと変化の小さい階段を上って、また長い年月をかかって小さな変化の階段を上って、発作などがあったらまた戻って、そしてまたちょっと階段を上ってということに33年かけてきました。

  私は自分の娘が重症心身で生まれた。この彼女が自分に授かっていないで、この子がよそのおうちにおられたら、自分はどう感じただろうと思うことがよくあります。きっとかわいそうなお嬢ちゃんだな、気の毒なお嬢ちゃんだな、つらいだろうな、ご家族もみんな大変だろうな、ご不幸なおうちだなとしか思えなかったと思うのです。口先でどう言おうと、そうとしか本音は思えなかったと思うのです。

 


10. 娘から学んだこと

 ところが、自分が授かってみて分かったことは何か。先ほど言いましたように、長い年月をかけてわずかに変化する、そのわずかな変化が、上のお兄ちゃんも下の娘も、自分が産んだ子ですからどっちも同じようにかわいいのですが、この小さな変化がお兄ちゃんの変化のときよりも何百倍、何千倍、何万倍といとおしいのです。同時に、人間ってすごいものなのだ、そういうふうにして必死で生きていこうとするのだと思ったのです。

  私は彼女から、人間は人によっていろいろな生きるスピードがあって当たり前なのだということを学びました。そして、人間の社会というのは、そういういろいろなスピードで生きる人たちで成り立っていたのだということがやっと分かったのです。だから、そのときに私が彼女のマイナスのところ、できないとか、何々に比べて、隣のだれそれちゃんに比べて劣るという見方をしたら、彼女の存在意義を私自ら否定することになるので、絶対それだけはしてはいけない。その子が必死で生きていこうとしている、その子なりの成長を遂げようとしていることを認める、その部分に着目する考え方がすごく大切なのだということを、自分の娘から教わったのです。

  だから、私は先ほど言った指先で経営者になった青年に、日本の福祉はもったいないことをしているということをある意味言えたというか、思わず言ってしまったのです。マイナスのところや不可能なところに着目をして、そこへ何をしてあげるかということを中心に考えている福祉だけではきっとだめなのだろうということを腹の底から感じることができたのは、やはり娘の存在のおかげなのです。

 


11. プロップ・ステーションの活動

 そして、プロップ・ステーションの活動が始まりました。彼がコンピュータを使っていたということもありますが、同時に、プロップ・ステーションの活動を始めるときに、全国の重度・重症といわれている人たちに、あなたたちの中でもし働きたいという人がいるとして、その働きたいというあなたにとって、どんな道具がこれからの武器になるだろうかというアンケートを取ったところ、なんと寄せられた回答の8割の人が「働きたい」というお返事で、なおかつ「これからの武器はコンピュータだと思う」と答えたのです。けれども、コンピュータを重度の障害のある人が習う場所がない。あるいはきちっとプロフェッショナルになるような教え方をしてくれる人、あるいはそのシステムがない。あるいは、もしその技術を身につけても、雇ってくれる会社、仕事そのものがない。万一会社があったとしても、自分は家から出ていくことすら大変だから、コンピュータで自分のいる場所で働くことができないだろうかというのがアンケートをとった結果でした。

  そこで、プロップ・ステーションは目標を四つ定めました。まずコンピュータに触れる。その使い方をたくさんの障害のある人たちが勉強することのできる場所を設ける。そして、そこに一流のエンジニアや一流のクリエーターに来てもらって、プロになれるような勉強会にする。ここが実はポイントなのです。趣味程度の人に習ったのでは、どんなことも絶対に趣味以上にはなりません。別にコンピュータに限らず、すべての技術がそうです。だから、仕事にしようと思うなら、プロになろうと思うなら、一流の、あるいは超一流の人に習わなければいけないと私は思ったのです。

  なぜなら、日本の福祉の現場には、残念ながら、お仕事のプロにしてくれる場所はほとんどないということに気づいたからです。世話をしてくれる人がたくさんいる場所はいっぱいあります。けれども、見えにくいけれども、この人のここに何か光を当ててここを磨いてあげたら、この人はこんなプロになれると引き出してくれるプロの人との出会いの場所は、ほとんどと言っていいぐらいないのです。失礼ながら、養護学校という教育もそうですが、何となく一般の人と一緒に勉強するのは難しいだろうから分けておきましょうというイメージが先立っているのです。そこに特別のプロフェッショナルが来て、卒業後にこの子が一流のここに行けるようにとか、ここでこれだけの給料を取れるように教えるということは、残念ながらないわけです。つまり、分けて保護をしようということはあっても、そこから本当の意味で社会の中に巣立たせる、メインストリームに巣立たせるということはないのが日本の福祉です。だから、私は絶対ここには一流の人に来てもらおうと思いました。一流のコンピュータを使って、最先端のソフトを使って、最高の講師を集めて勉強しようと思ったのです。

  そしてグループ活動を始めましたが、すぐに挫折しました。なぜでしょうか。15年前、その当時パソコンはほとんどまだ一般家庭にありませんでした。買えば100万円以上するという時代です。ソフトウェアもめちゃくちゃ高かったのです。ー流のエンジニアもクリエーターも、今のようにコンピュータが一般的ではありませんでしたから、まだまだ限られた人で、高い給料を取ってお仕事をされている。そのときにコンピュータを何台か集めて、一流のソフトを入れて、一流の人に教えてもらえる場所を作ろうといっても、そんなお金がどこにあるのですかという話なわけです。

  そして、集まった私たちは、「困ったなあ。コンピュータがどこかに落ちてないかな」という会話を交わしていました。すると、だれかが「もしかしたらコンピュータを作っているところにはあるんちゃう」と言い出したのです。「そらそうやなあ。そしたら、だれかがそのコンピュータを作ってはるところに行って、『おたくで作られたその素晴らしいコンピュータを私たちの勉強会に何台かちょっとただで貸してくれませんか』と言いに行ったらええんちやうの」「おお、それは理屈や。ソフトウェアはどこにあるの」「開発してはる会社にあるやん。そしたらその開発してはる会社に行って、『その素晴らしい最先端のソフトウェアを私たちの勉強会にただで提供してもらえませんか』とだれか言いに行ったらええんちゃうの」「まあ、それは理屈やなあ。一流のエンジニアのところに行って、クリエーターのところに行って、『あなたのその技術をぜひただで提供してください』って言ったらどうや」「それはええ考えやなあ。ところで、そんなん、だれが言うに行くのん」と言ったら、全員が「ナミねぇ、あんたや」と指を指したわけです。

  集まった仲間は、みんな自分らはコンピュータを一生懸命やろうと言っています。私だけが「私は口と心臓の役だけするから、悪いけどそれは私にはせえよとは言わんといて」と言っていたのです。そしたら、ここはあんたの口と心臓でしょうみたいな話になりまして、そういうお願いにいくのだったら肩書きが要るし、代表かなということになりました。

  それで私がやるということに決めたわけですが、幾ら私がずうずうしくても、先ほど言ったような高価な機械、あるいはすごく力を持った、ごく一部しかおられない人に、ただで来てくれとは言いに行けません。どういうふうに言うか悩みました。悩んだ末に、こういうふうに言いましょうという前に、これだけは絶対に言わないでおこうという言葉が決まりました。それは「私たちのプロップ・ステーションの勉強会には、障害が重くてかわいそうにお仕事もできない人たちが集まってこられるのです。何とかこの人たちにコンピュータ、ソフトウェア、あなたの力をお貸し願えませんか」と言うことです。それだけは口が裂けても絶対に言わない、私はこじきにならないと決めました。

  では、どう言うか。「私たちのこのコンピュータの勉強会では、必ずあなたの会社で欲しくなるような人が育ちます。必ずあなたの会社で、どこにいたってちゃんと仕事してくれるのだったら仕事を出すでという、そのちゃんとしてくれる人たちが介護を受けている場所でも必ず育ちます。これからは高齢社会です。高齢社会とは何ですか。見えにくくなる人、聞こえなくなる人、指が震える人、考えが緩やかになる人、そういう人が増えてくるでしょう。コンピュータが今みたいに難しかったりソフトウェアが使いにくかったら、シェアは広がりません。このコンピュータが高齢社会でシェアを広げるためのアイデアや提案を自分の体を張ってちゃんとしてみせる人、必ずそういう人たちが生まれてきますから、決して同情していただく必要はありません。先行投資をしてください」と言うことにしました。その当時、コンピュータ業界は勃興期でした。まだ楽天という会社もありません。マイクロソフトの日本法人が日本語のWindows95を発売する、もっと前の時代でした。その本当に勃興期に、私たちは今で言うIT業界の一握りのトップの人に、それをお話ししに行ったのです。

  日本の福祉関係者といわれる人でビル・ゲイツに何回か会っているのは、多分、私だけです。あのビル・ゲイツも、学生のときにすごいコンピュータの才能を現して、あのマイクロソフトという会社を作って、今や世界一の大金持ちです。でも、その仕事を辞めて、今は世界のドネーション王に徹しておられます。あのビル・ゲイツさんがマイクロソフトの日本法人を作ったときに社長に据えられた人も、アスキーという会社を学生ベンチャーで起こした人だったのです。つまり、私がお会いする人は、社長といえどもみんな若い、20代、よくいっていても30代頭で、しかも何か決断する、決裁を下ろすのに、判こが重厚長大の会社みたいに何十個も要らない。その若い社長が「ゴー」と言ったらゴーだったのです。

  しかも、これから日本をコンピュータ世界にするために、自分たちは必死で売り込みをかけて、広げていかなければならない。広げるためのことなら何でもやらねばならないという状況のところに、私がこういうお話をする。「あんたの言うことは面白い。5年後、10年後のためにと、あんたが言っていることが理解できる」と、マイクロソフトの日本の日本人社長は言ってくれました。そして、「絶対にあんたのやることを後押ししよう」と言って、そういう業界の人たちの集まりや勉強会に必ず誘ってくれました。そういうところにビル・ゲイツさんなども来られたのです。そして、お会いさせていただいて、こんなお話をずっとさせていただきました。それによって、おかげさまでIT業界といわれる人たちが全面的に支援をしてくださって、最新のパソコンや最新のソフトウェアを使って、最高の技術者のかたたちに集まっていただいてのセミナーがスタートしたわけです。

  そして、15年たって、プロになるチャレンジドたちがどんどん生まれてきて、彼らは自分が人から教えてもらってプロになったからということで、プロの技術をもって今度は次の人を育てるという循環が生まれてきています。

 


12. 写真集『チャレンジド』

 プロップの活動のようすを『チャレンジド』という写真集にしたのですが、実はこの写真集の発売元は、なんとあの吉本興業さんです。吉本さんが吉本興業の芸人さん以外の写真集を出したのはこれが初めてなのですが、プロップ・ステーションの活動を『チャレンジド』という写真集にまとめてくれたのです。その写真集から抜粋したものをパワーポイントにして、この中へ入れてきました。ちょっとそれを見ていただくと、どんな人たちがどんなふうにコンピュータというものと出会い、今、お仕事をされているかが分かっていただけるかと思います。

資料番号0

  これが写真集の表紙(資料番号0)です。このにっこり笑っているのが私の娘です。きれいな目をしているのですが、残念ながら見えていません。

  チャレンジドは、すべての人に課題に向き合う力が与えられて、課題が大きい人にはその力がたくさん与えられるという哲学が込められているとナミねぇは信じています。

資料番号1

  娘(資料番号1)です。ちょっとこういうふうに歩く。この日はすごく機嫌がよかったのです。この写真集を出して4年近くになりますが、そのころから少し歩き始めています。これはプロップ・ステーションの本部のある神戸東灘六甲アイランドの海岸です。この日はすごく機嫌がよかったのです。機嫌がいいことはなかなか少ないのですが、この日はプロの写真家のかたが機嫌のいいところを撮ってくれました。 うれしいことです。

資料番号2
資料番号3

 このかたは(資料番号2)、ウエルドニッヒ・ホフマンという難病です。枚方に住んでおられます。ちゃんと座っているようですが、実は全身筋肉の力が入らない病気で、コルセットで固めて座っています。ちょっと後ろは見えにくいですが、ここに絵筆がいっぱいあるのです。彼女は子供のときから絵をかくのがすごく好きで、絵本作家になるのが夢でした。ところが、彼女が絵をかくときには、絵筆を持たせてもらって、お水をくんできてもらって、だれかにしぼり出してもらって、そして、大きな絵をかくときは画用紙を回してもらってだったのです。ところが、プロップ・ステーションでコンピュータグラフィックのお勉強をされたことで、だれかにマウスに手を乗せてもらうだけで、思うがままに絵がかけるようになりました。これはお母さん(資料番号3)です。今は介護されているお母さん、お父さんとご一緒に暮らされています。でも、やはり彼女は絵筆も捨てていません。ゆっくりゆっくり絵筆で絵をかくことと、スピーディに絵をかいて、その絵を商業デザインや企業に納めなければいけないというときにはグラフィックでさくさくとかかれて、絵本は手がきとコンピュータグラフィックとで組み合わせて、ついに彼女は子供のときから夢だったプロの絵本作家になりました。これまでに2冊の絵本が出ていて、今は次の新作に今取りかかっていらっしゃいます。

資料番号4
資料番号4

  このかたは(資料番号4)、宮城県に住んでいる仲間です。交通事故で障害になりましたが、背骨ではなく首の骨も折りましたから、やはりかなり手の不自由度が高いのです。それで、このように軽い力で操縦できる、これはよく知られていると思いますが、足で運転せずに両手だけで、しかも軽い力でハンドルで運転するという自動車で移動されながら、コンピュータのお仕事もされています。

資料番号5
資料番号5

  このかたは(資料番号5)大阪の堺市のかたですから、もしかしたらご存じのかたもいらっしゃるかもしれません。生まれついての重度の脳性まひです。足と左手が拘縮といって固まってしまって全く動きません。唯一動く右手はアテトーゼで自分の意思に反して動くのです。でも、彼も絵をかくのが大好きでした。握り締めたクレヨンやサインペンでいろいろなシュールな絵をかいていました。けれども、彼の頭の中には直線も素晴らしい曲線も生まれます。しかし、それを彼は自分の手では表現できなかったのです。プロップのコンピュータグラフィックセミナーでぐんぐん成長されて、今、彼はアーティストとして非常に一流になりました。新聞社から彼に指名で絵を求められたり、企業から彼にこんな絵をかいてと言われるような人になりました。今、幾つかの仕事に取りかかっている最中です。

資料番号6
資料番号6

 この人は(資料番号6)プロップの15年前に始まったコンピュータセミナーの1期生で、今はプロップの一番人気の先生です。先ほど言ったように、どんどん自分が先生になっていくのです。見てください、マウスに足が乗っています。彼のセミナーを聞いていると、面白いのです。「はい、皆さんマウスから足を離して」「そんな人あんたしかおらへんやん」と言いたいところですが、最近は足で勉強する人も増えましたから、別にギャグにもならなくなって残念です。私はコーヒーを飲むのにインスタントなのに、彼はなんと足でやかんを持ってドリップで入れて飲んでいます。一人暮らしでお料理、洗濯、掃除、全部自分でやっておられて、お料理は私の100倍くらい上手です。めっちゃおいしいです。

資料番号7

  彼は(資料番号7)、三重県に住んでいます。大学を卒業して就職が決まったその日に、乗っていたバイクの事故で首の骨を折って全身まひになりました。彼は指先も1本も動きません。首だけがわずかに動くのですが、なんと体が不自由になってからプログラミングの勉強をして、口にくわえたキーボードでコンピュータを操作します。その彼のコンピュータの才能にマイクロソフトの社長がすごく着目して出資をしたことで、彼は今や株式会社の社長をしながら、地域の子供たちにコンピュータを教えるNPO活動もしています。

資料番号8

  彼は(資料番号8)、仙台に住んでいます。彼も全身に力が入らない難病で、日常はお母さんの介護で暮らしていますが、プロップの優秀なSEです。こういう遠隔の人たちと仕事をするとき、私たちはインターネットだけではなくテレビ会議のシステムも使います。つまり、日本における最高の最新のIT技術を全部導入することによって、どこにいてもその人がいる場所で学べる、働けるということをプロップは続けてきました。

資料番号9

  彼女は(資料番号9)シングルマザーで、生まれついて聞こえない、しゃべれないという女性です。訓練によってお話しすることはできますが、もちろん自分が出した声を聞き取ることはできません。ですから、本来全ろうあという状態です。子供さんとこのように過ごされていますが、彼女は漫画家を目指して必死の努力をしています。彼女の漫画ブログがこの間オンラインで発表されましたが、彼女もプロップ・ステーションのコンピュータセミナーでグラフィックを学んで、今、コンピュータで漫画をかくという世界がどんどん広がりつつあります。彼女はそれに挑戦しながら子供さんを育てています。 手が不自由な人のためのいろいろな補助装置があります。キーボードを打つこういう道具もあります。

資料番号10

 彼は(資料番号10)プロップの最も優秀なSEです。進行性の筋ジストロフィーで、もともとコンピュータ・エンジニアでしたが、歩いて通うことが無理になり、ステッキをついて通うのが無理になり、車いすが無理になり、そして、最終的に全く在宅になって、企業で働くことは無理だと宣言されました。そして、プロップ・ステーションにご相談にいらっしゃったのですが、彼の知識を眠らせるほどもったいないことはないということで、彼は今、在宅のプロップのSEです。彼は自宅のパソコンからプロップのサーバーに入って、そのサーバーの向こうにいる何百人の人たちにアドレスを発行することから、お仕事を振り分けることから、それをチェックすることから、あるいはその人にどれだけのお仕事をされたかという計算するようなことも、リーダーとしてやっていらっしゃいます。私は口と心臓、彼は頭脳ということです。

資料番号11

  これは(資料番号11)グラフィックのセミナーの状況です。これはクリエーターさんです。真剣なまなざしで勉強しています。

資料番号12

  彼女は(資料番号12)知的なハンディと身体の障害との両方持たれています。最近、コンピュータやソフトウェアがかなり感覚で使えるようになってきました。知的ハンディの人もすごく勉強されるかたが増えました。かなり重い知的のかたでも、1年間ぐらい勉強すると、自分のホームページが必ず作れるようになります。最もすごいのは自閉の人です。重い自閉で対面では全くコミュニケーションの取れない人が、チャットだと普通のおしゃべりができて、コンピュータとの相性がすごくいいということは、実はこの世界ではすでに常識になりつつあります。

資料番号13

  これは(資料番号13)なんばグランド花月の舞台です。この写真集が出たときに、「あんたら写真集出版記念に何したい?」と言ったら、「花月の舞台に上がりたい」と言いました。実はプロップには笑いを取れないやつは仲間に入れてやらないという鉄則がありまして、そういう意味で写真集の記念に舞台に上らせていただいて、面白いことをさせてもらいました。仕事をしているときと違って、何という笑顔でしょうか。

資料番号14

 彼は(資料番号14)全盲です。1歳のときに目のがんにかかって両目を摘出しました。ですから、全盲ですが、なんと子供のときから工作大好き少年で、お父さんと一緒におふろの見張り番が世の中に出る前に、そんなものを作ったりしていたそうです。高校ぐらいからコンピュータが好きになって、私が出会ったのは大学のときなのですが、そのときには英語版のWindowsを学んで、Windowsのソフトのバグを見つけてソフトの中に入っていって、バグ取りをするようなことや、自分で秋葉原に行ってパソコンの道具を買ってきてハンダづけをして組み立てたりしていました。私は彼があまりすごいので、マイクロソフトの社長に紹介しましたら、社長が即気に入って、学生の彼とコンサルタント契約をして、Windowsがいろいろな障害の人に使えるようにするためのアイデア出しをまずしてくれという依頼がありました。大学を卒業した彼は技術センターに採用され、今は日本とシアトルのマイクロソフト本社とを行ったり来たりしている最高の技術者の一人です。日本マイクロソフトを変えたのは、この全盲の青年です。

資料番号15

  私たちはこういう考え方を伝えるためのさまざまな大きなフォーラムをしています。いちばん大きいのは、チャレンジド・ジャパン・フォーラム国際会議 (資料番号15)で、これは今年は7月22日に多くの大臣などに集まっていただいて、東京でやりました。この大会もチャレンジドはお客さんではありません。すべてスタッフです。裏方の映像を作ったりするところから、どんな大会をして、どんな人に来てもらうという打ち合わせから、いろいろなロジスティクスから全部、彼らがスタッフとしてやります。当然、英語だって使います。

資料番号16

  この写真集が出たときに、たまたま何社かの新聞社が報道してくれました。そのときの新聞(資料番号16)です。もう4年前になるのですね。これは、私がいちばん好きな写真なのです。その写真集に入っているのですが、こういう笑顔を見せてくれることは本当にめったにないのですが、この日は最高でした。本当にかなり長時間、長時間といっても1時間ぐらいで、彼女にとってはすごい長時間だったのですが、いい笑顔を見せてくれました。

  ということで、プロップ・ステーションの活動でした。

 


13. まとめ

 プロップは、そのかたの年齢、性別、障害の種類、障害が重いか、軽いか、そういうことは一切問いません。今、チャレンジド自身が講師をしているセミナーでは、子供が小さいからなかなか普通のコンピュータセミナーでは勉強できないとか、家族が障害を持ったから、何とかその家族と一緒にコンピュータの勉強をしたいというご家族、そういうかたがたが一緒に勉強しています。要は自分の力を世の中に発揮することが困難だ、困難だけれども発揮したいと思う人は、みんな一緒に勉強しようよねということでやっています。

  国の制度も、実はいろいろとそういう就労支援に向けて動き始めました。簡単に言いますが、今、自立支援法のことで多分自治体の皆さん、行教職員のかたは悩んでおられるかもしれません。私の立場だけでものを言わせていただきますが、自立支援法は、理念は間違っていません。先ほども言ったように、彼らが社会的な責任も負えるような人たちにしていこう。だから、今まで以上のいろいろな多様な働き方ができる就労支援をしていきましょう。障害の種別によって線を切ったりするのはやめましょうという理念のところは私は悪いとは思っていません。ただ、1割負担が入ったということで、今すごく反対運動が起きています。けれども、私はこう考えています。負担できない人たちだという決めつけが、先ほどの話から言う差別の出発だと思っています。負担できる人にしていこうという意思をこそ、今、自分たちは持たないといけない。だから、負担できない人たちに何をするのだというだけの意見には、私は与しません。負担できない人たちではありませんということを言いたい。そして、自分の娘のような、あるいはこれから増えてくるであろう認知症の高齢者のような、社会を支える側に回ることは恐らく一ペんたりとも難しいであろうという本当の弱者の人たちを守っていき続けるためにも、一人でもたくさんの人が支える側に回れる仕組みを作らなければだめなのです。

  実はこの1時間半、私がお話ししてきた究極の目的はそれです。私は自分の娘を残して安心して死にたいと思っています。けれども、自分の娘のような存在が社会的に守られて、私が安心だと思って死ぬためには、今のままの福祉の形では無理です。受け手のほうがどんどん増えてくる福祉の国はつぶれます。アメリカは考え方を変えました。スウェーデンも35年ぐらい前に変えました。弱者に手当てをするのではなく、弱者の中から一人でもたくさんの人を弱者でないようにしていく、スウェーデンやアメリカがこのプロセスを福祉と呼ぶことに変えた理由は、少子高齢化への直面でした。スウェーデンも世界一の少子化の時期に直面したのです。アメリカもそうです。そのときに考え方を変えたのです。日本も今しか多分変えられない。今、変えなかったら、もしかしたら私は安心して死ねないかもしれないという危機感で、この活動をやっています。

  ですから、私がやっている活動は、別に正義でも善でもありません。母ちゃんのわがままです。ですけれども、母ちゃんのわがままに共感するよと言ってくれた人たちが、1人、10人、100人、1000人と増えて、今この活動が少しずつ広がってきて、今日こうやって市町村職員という公務員の皆さんたちに、元不良の姉ちゃんが偉そうにマイクを持ってお話をさせていただいているという状況になったわけです。

  私は、せっかくのこのチャンスを逃したくないと思って、今、皆さんにお話をしています。全員のかたが私の考えに共感してくださるかどうかは分かりません。これは考え方のチョイスの問題ですからかまいませんが、こういう考え方もあるということを知っていただいて、もしそういう考え方のほうが自分たちがお仕事をしていくときの本当の道かもしれないと思うかたがいらっしゃったら、この考え方の輪に入っていただければと思います。

  本当の弱者といわれる人たちは存在します。弱者が世の中に存在しないという立場ではありません。ですけれども、単に弱者と決めつけられている人の中に、実はいっぱい支える力が残っています。それをみんなでまず掘り起こすところ、そして発揮してもらうところを作らずして、日本の高齢社会は大変だというのはやめたいと思っています。そう言った瞬間に、自分で自分の首を絞めることになると思います。安心して死にたい。まして私は、通り過ぎたあとにぺんぺん草も生えないといわれている団塊の世代ですから、この団塊の世代の自分ができることは何だろうかと考えた結論が、私にとってはこのプロップ・ステーションだったのです。

  そういう意味で、私はこういう発言をいろいろなところでするので、今度の自立支援法に反対されているかたから、自立支援法成立の戦犯と言われています。昔「Challengedを納税者に」と言ったときにいっぱい石が飛んできたのと、今は全く同じ状況になっていますが、私はそのときと同じことを言いたいと思います。これは考え方の一つのチョイスです。ですから、あなたはその考え方で、福祉は必ず自分たちが受け手であって初めて福祉なのだという考え方をされる人がいても、それはいろいろな考え方があって当たり前の社会ですからかまいません。けれども、どんな考え方もちゃんとそれぞれに前へ進んでいけるように、お互い足の引っ張り合いやつぶし合いをすることだけはやめようよというのが、私の気持ちです。

  長時間になりましたが、今日のナミねぇのお話を終わらせていただきます。皆さんありがとうございました(拍手)。

 




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