早稲田大学「大隈塾」講義2007-2008@ 日本、変革 田原 総一郎 11月15日発行より転載

第2部 農業・福祉・教育の限界から 第7章

弱者を弱者でなくしていく福祉

竹中ナミの写真

【ゲスト講師】
(福)プロップ・ステーション理事長
竹中ナミ たけなか・なみ

Guest Profile
▲生年:1948年
▲出身地:兵庫県
▲主な経歴:神戸市本山中学校卒業、17歳で結婚、重度心身障害児の長女を授かる。91年障害者の就労を目指すボランティア団体プロップ・ステーションを設立、92年大阪ボランティア協会内に事務所移転、98年社会福祉法人格取得。現在、プロップ・ステーション理事長のほか、内閣府、財務省をはじめとするさまざまな委員、講師を務める。
▲主な著書:「ラッキーウーマン−−マイナスこそプラスの種!」(飛鳥新社、2003)、「プロップ・ステーションの挑戦」(筑摩書房、1998)
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◎講義:2007年6月11日 ◎担当教員:岸井成格

 

講義のはじめに

早稲田大学の学生を行動へ駆り立てた、大姉御


 今日は、日本の元気な女性の象徴でもある竹中ナミさんです。3年連続でおいでいただいて毎回大変好評で、知っている人からも知らない人からも「ナミねぇ」と大姉御のように呼ばれている方です。

 社会福祉法人の理事長で、障害者の自立のために本当にいろんな面倒を見ていらっしゃいます。「自立支援」と一言ではいい表せないような仕事や活動をしていらっしゃる。政府・国会にも政府委員になったりして働きかけをなさっています。

 障害者ではなく「チャレンジド」−挑戦する人々、挑戦する者という意味ですね−という言葉を何とか定着させたいという思いも強いと思います。

 お話を伺って、人生は何なんだろう、あるいは、生涯を貫く仕事、考え方とはどういうことなんだろうということを、みなさんに大いに学んでほしいし、元気をもらってほしいと思います。

 それから、一昨年(2005年)だったと思います。ナミねぇのお話を聞いて非常に感銘を受けた学生たちが、早稲田大学は障害者にちゃんと優しい大学になっているだろうかといって、いろいろ点検しました。そして、学内にはあちこちに段差があって車椅子では移動が難しいことや、大学のホームページでの障害者利用施設の紹介がわかりにくいとか、問題点と解決策を大学側にプレゼンテーションでした。その結果、今のホームページはアクセスもしやすくなって、内容も改善されました。ナミねぇの講義はそういうきっかけにもなっています。今日もみなさん、何かを得て、帰っていただきたいと思います。

 それではナミねぇ、お願いします。

社会福祉法人
社会福祉事業を行なうことを目的として、社会福祉法の規定により設立された法人。公共性が極めて高く、営利を目的としない民間法人で、所轄庁の監督のもとに地域の中で施設などをつくり、社会福祉サービスを行なう。補助金の交付や税制面での優遇措置がなされている。

チャレンジド
challenged(チャレンジド)は「障害を持つ人」を表す新しい米語「the challenged(挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とし、障害をマイナスとのみとらえるのでなく、障害を持つゆえに体験するさまざまな事象を自分自身のためあるいは社会のためポジティブに生かしていこう、という想いを込め、プロップ・ステーションが提唱している呼称。

 

ゲスト講義

働くことは社会を支える一員であろうとする意思


障害者もICTで情報収集・発信ができる

 みなさん、こんにちは。岸井さんからご紹介いただきましたように、ニックネームは「ナミねぇ」といいます。歳はたぶん、みなさんの母ちゃんよりもずっと上と思うんですが、「ナミばあ」じゃなくて、永遠に「ナミねぇ」というニックネームで呼んでいただきたいなと勝手に思っておりますので、ぜひそう覚えていただければと思います。

 今、お話がありましたように、この早稲田大学大隈塾でお話をさせていただくのは今回が3回目です。私はいろいろな学校で学生さんたちにお話をさせていただく機会をいただいていますが、大隈塾の学生さんたちは毎回熱心に聞いてくださいます。それだけではなくて、先ほどもいわれたように、あとで何か自分たちの行動につなげてくださる。あるいは、学生さんたちが「あのときの話をもうちょっと詳しく聞かせて」といって、「プロップ・ステーション」の本部がある神戸まで来てくださったりする。そういうアクティブな学生さんがそろっておられるこの大隈塾で、またお話をさせていただけるということを大変光栄に思っていますし、うれしく思っております。

 私たちがやっているプロップ・ステーションですが、どういう活動をやっているのか、ここからお話を始めさせていただきたいと思います。

 障害があって、とりわけその障害が重くて、家族の介護が必要という方。あるいは、家族に介護されることも無理になって施設におられる方。日本ではいわゆる重度障害者と呼ばれていますが、重度障害者の人たちは「世の中で働くとか社会に何か貢献するとか、そういうことは無理や。こういう人らには社会が何かをしてあげないかんねん」といわれている。いわゆる福祉の対象となっています。そういう人たちが、ICTを活用して自ら社会とつながっていこうとするための手助けをしています。

 日本ではITと呼ばれているんですが、実は国際的には間にCが入って、ICTなんです。IT、つまりInformation Technologyが情報技術。間のCは何かというと、コミュニケーションです。Information and Communications Technology゜ICTというのが本来の使い方です。情報技術というものは、人と社会とか、社会と社会とか、ビジネスとビジネスとか、そういったものをつなぐコミュニケーションの道具であるということが、大きな出発点としてあったということなんです。

 情報がほしいとき、「お願いします。情報をください」といってもらうんじゃなく、自分自身で必要な情報をゲットしていく。情報の中には自分自身を磨くような、スキルアップするような、性格をアップするような、怖いことも含めてさまざまな情報がありますから、その情報の中で自分に必要だと思われるものを、ICTによってうまく取り込んで、自分を磨いていく。自分を磨けると思う人とつながっていく。そして、自分ができるようになったことを、またICTという道具で世の中に発信する。「私は確かに障害はあるけど、ここにいて、こんなことを勉強して、こんなことができる。こんなことを考えている」と世の中に表現していく。その道具としてICTを使っていこうというのが、私たちプロップ・ステーションの活動の柱です。

ノーという障害者たちとともに

 重い障害の人向けのコンピュータの勉強屋さんかと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、全然そうではないんです。

 人間の中には必ず、外から見ただけではわからない、その人なりのいろいろな力が眠っている。それはすべての人の中に眠っている。たとえばみなさんは、受験してこの大学に入り、将来何になろうかなと考え、いろんなところに就職活動に行き、どこかに就職が決まって働くようになる。そういうことがたぶん当たり前の道筋としてあるでしょうし、あると思っておられるでしょう。

 けれども、重い障害で、家でお父さん、お母さんの介護を受けているとか、誰かに下の世話もしてもらっているという状態の人は、そういう社会のレールに乗っていくことは残念ながら日本ではできなかった。「そういうことの無理な人」というふうに逆にいい切られていた。

 そういう、「あんたはかわいそうな人やね。気の毒な人やね。世の中のレールに乗っかっていくことは無理やね。だから、福祉の対象としていてください。あなたたちには温かい手をさしのべてあげようじゃないか」と世の中からいわれていた人たち自身が、「それはいやや」といい出したんです。

 そんなにたくさんの人じゃありません。少ない人数ですが、いい出した。自分にもやりたいことがある。夢もある、希望もある。もちろん不安もあるし、介護もしてもらわなければならない。外にも出にくい体ではある。だけど、自分もやりたいことがある。みんなと同じように、障害を持たない人と同じようにある。社会とつながること、勉強すること、働くこと、稼ぐこと、能力があればちゃんと地位が上がっていけること、そしてタックスペイヤー(納税者)として社会を支え、社会を貢献する一員でもありたいというような思いがあるのだ、と。その人たちと一緒に始めた活動がプロップ・ステーションの始まりです。

彼らが16年前に活動の道筋を考え、私に教えてくれた

 この活動が始まったのは16年前です。16年前はみなさんは何歳だったでしょうね。5歳? 3歳? そこらへんだったんですね。16年前、みなさんが4、5歳だったときに、ICT、コンピュータとか情報技術はどんなだったと思いますか。

 なんと、日本の一般家庭にはパソコンというものはゼロ台でした。もちろん携帯電話なんて影も形もありません。パーソナルコンピュータという、個人が机の上に置いて一般家庭で使うようなものはほとんどなかった。けれどコンピュータというものは、もう世の中に出現しておりました。研究室や企業の特別な部署の奥のほうとかに、冷蔵庫よりも大きい箱みたいなのが並んで、中でリールがガーッと音を立てて回っていた。

 パソコン通信−−インターネットじゃないですよ−−は、コンピュータとコンピュータの、会員になった人たちだけの間で文字情報をやりとりするというようなもので、ビジネスとして日本に上陸したばかりでした。PC-VAN(NEC)とかニフティサーブ(富士通)とかのパソコン通信が始まって、一部の研究者とか一部の情報処理の仕事をしているビジネスマンが使っていた。たぶん全国で数千人から1万人程度の人が使っていた特殊な技術でした。それが16年前のITなりICTでした。

 そう聞くと、みなさんはもしかしたら、あれっと思われるかもしれません。そんな時代に、障害が重くて家族の介護を受けているような人が、そういう道具を使って社会とつながって、できたら稼げるようになって、タックスペイヤーになろうなんていうことを考えたなんておかしいんじゃないかと。

 実は、16年前に重度障害の人たちがコンピュータを使うといい出したときに、私も「この人ら、何いうてんのやろ」と思いました。コンピュータというものがあるというのは、風のうわさで知っていましたが、「ごっつい難しい技術で、ごく限られた特殊技能を持った人が使うてはる」と思っていましたから、重い障害があって、寝たきりで、下の世話もしてもらっている人が、それを使えば働けると、「そんなことができるんかいな」と思いました。

 ところが、その人たちが、こういうふうにいったのです。
  「僕らかて働きたい」
  「自分らかて働きたいという目標がある。その自分らが働きたいという目標を達成しようと思ったら、この道具しかないと思うねん」
  「今このコンピュータという道具で、どうやら人がつながるというようなことができ始めているらしい」
  「私、知らんのに、あんた、なんでそんなこと知ってんの?」と私。
  「僕らは体が動かへんから、いろんな人から聞いたことを情報源にして、どうやったら僕らの未来を自分らで変えていけるんやろと考えてるのや。そういう中でいろんな人から聞いた話の中で、このコンピュータという機械に、僕ら、私らは期待しているのや」
  「だけど……」と彼らはいいました。
  「だけど、このコンピュータというものを、自分らのように重い障害を持った人間が勉強する場所がないねん」
  「ベッドサイドにコンピュータのできる友達に来てもろうて、COBOL(プログラミング言語の一つ)とかちょっと教えてもろうてんねん」
  「せやけど、友達に教えてもろうたんでは『この技術で絶対に稼げるぞ』というところまでになれるかどうかわからへん。だから、僕らは、できたらプロの教える人から習うて『おまえ、これはプロや。これで稼げるぞ』というところまでちゃんと評価をしてほしいんや」
  もし評価してもらえたら、当然働きたい。だけど……。
  「僕なあ、朝起きて、家族に着替えや洗面や食事や全部世話してもろうて、身繕いして出ていこうとしたら、それだけですごい時間がいる。世の中、通勤というたら満員電車や。もし通勤して働けといわれたら、職場へ行って帰るだけで、もう僕は体力を使い果たす。無理や。だけど、ナミねぇな、コンピュータでつながるっていうことができたときに何が起きるかというたら、僕らが仕事場へ行かんでも、仕事が僕んとこへ来るっていう働き方ができるんちゃうか」
  こう彼らがいったのです。

 なんぼ自分らが障害が重く介護が必要でも、コンピュータを勉強する場所があって、一流の人が教えてくれて、評価してくれて、そして仕事が家に来るという働き方が世の中で認められたら、自分らは堂々と働く人になれる。

 自分たちが社会で活躍するための道筋を、自分たちで考えていたのです。

 今、いろんなNPOが世の中にありますが、この活動を始めたころは、NPOという言葉もボランティアという言葉もほとんど知られていませんでした。ボランティアとかNPOという言葉は、12年前に起きた阪神・淡路大震災(1995年1月17日)のときが新聞などに書かれた最初です。あのとき実際にボランティア活動として被災地に入って復興の手助けにしたりする人たちが出てきて、その後、そういう市民の活動、つまり警察や自治体が助けてくれるだけじゃなく、困ったときは自分たち自身の力で助け合わなくてはということで、いわゆる市民活動、市民運動というものが起こった。そういうものを認める法律もつくろうといってNPO法もできたわけです。

 プロップ・ステーションが始めたことはそれより前です。日本の市民の運動の、あるいはノンプロフィット、NPOの運動のはしりだった。今になって振り返ってみてわかるんですが、今のNPOでも、こういうプロセスを踏んで、こうしたいというものを明確に持っていて、その出発とゴールが見えているグループは、少ないと思います。

 私たちは、「どんなに障害が重くても、コンピュータを勉強する場所があって、ちゃんと一流の人に教えてもろうて、稼げる技術を身につけて、仕事がこっちへ来たら、自分らの力は社会で生かせるんや」というふうに、出発とゴール、目標というものが明確に見えていた。それが見えた以上は、「ほんなら、それやりましょう」という話になるわけです。

 まだ高い道具だけど、コンピュータを何台かそろえる。超一流のエンジニアやクリエーターといわれる人に教えてもらう。そして技術を高めて、仕事ができるようになったら、営業が得意な人間が仕事をもらいに行く。そういうような仕組みを自分たちでつくったらいいんだと。

 

乞食にはなりたくない

 ところが、始めた瞬間に挫折しました。コンピュータ1台100万円を下らない時代。ソフトウエアも、ものすごく高い。今みたいに石投げたらコンピュータを使える人に当たるというような時代じゃないんです。一流、超一流のエンジニアは、極めて特別な会社の中で特別なお仕事をされていたわけです。

 私は、そういう人に聞きに行きました。「大変失礼ですけど、あなたは一流のエンジニアさんやそうですけど、時給に換算したら、いくらぐらいもろうてはりますのん」と。私たちにも懐具合がありますからね。そしたらなんと、その人たちはニッコリ笑って「うーん、そうですね。時給に換算したら8万円から10万円ぐらいですかね」という。思わず「それ、月給じゃなくてですか。時給なんですか」と聞き返しました。

「まあ、それぐらいになるでしょうね。僕らのような技術の人間はまだまだ日本では少ないんでね。いろんな企業から引っ張りだこですよ」、そんな話でした。

 コンピュータは100万円ぐらいするし、ソフトウエアは1本数十万円。教えてくれる人は1時間8万円から10万円。やろうと高まった気持ちは、それを間いてすぐにしぽみました。「ああ、もうこれはあかんわ。自分らの手の届く話じゃない」と思って、みんなでぐずぐずいってたのです。

 「どこかにコンピュータとか落ちてへんのかいな」
  「落ちてへん、落ちてへん」
  「どこに行ったらコンピュータある?」
  「そら、コンピュータつくってる会社に行ったらあるんちゃう」
  「ほんなら、誰かがコンピュータをつくってる会社に行って『おたくでつくってるコンピュータは超一流の素晴らしいものやそうですね。そのコンピュータを何台か、プロップ・ステーションという新しく生まれたグループの活動の勉強会にちょっと貸してもらえませんか。ただで』といいに行ったらええんちゃうの?」
  「おお、それはええ考えやな」
  「ソフトウエアってどこあるの?」
  「それは間発してはる会社にあるんやろ」
  「じゃあ、開発してる会社に行って、『おたくで開発したその素晴らしい一流のソフトウエアを、何本か私らの勉強会に提供してもらえませんか。ただで』っていいに行ったら、ええんちゃうの?」
  「一流のエンジニアに、『あなたのそのすごい技術を、私たちのコンピュータの勉強会で、ぜひ伝授してやってください。ボランティアで』というたら、ええんちゃうの?」

 そこで私が「そりゃええなあ。でも、そんなの誰がいいに行くの?」といったら、集まった仲間が全員私を指さして、「そりゃナミねえ、あんたやろう」というわけです。

 というのも無理はないのです。集まっている重い障害を持つ仲間たちは、コンピュータを必死に勉強して、それによって自立や社会貢献を目指すといっている人たち。私だけがコンピュータは苦手で「もうそんなもん触れって私にいわんといて。その代わり、私、コンピュータ以外に得意なもんかある。口と心臓はギネス級や。そやからこの口と心臓で私は役に立つことをこのグループでするさかいに、私にはそのコンピュータを触れっていわんとってな」ということで、グループは集まったものだったからです。

 でも、いくら私の口と心臓がギネス級でも、そんな高い高い機械、高い高いソフトウエア、高い賃金をもらっている人たちを、「ただで」「ただで」「ただで」といって集めるほどの心臓はないです。「どういうてお願いしたらええんかな」と真剣に考えました。

 しばらく悩んでいたんですけど、どういうふうにお願いをしようかという言葉の前に、お願いに行ってもこれだけは絶対にいうまいという言葉が、先に自分の中で決まりました。

 コンピュータをつくっている会社に行って、そこの社長さんなり代表者の人に会ったとき「すみません。私らのプロップ・ステーションというところには、障害が重くて体が不自由で仕事ができない気の毒な人が集まっているんです。ですから、何とかこの人らのためにコンピュータを一台……」というようなことだけは、口が裂けても絶対にいうまい。
  そう思いました。

 プロップ・ステーションというグループをつくって、集まって、勉強したいといっている人たちは、それぞれ重い障害を持っています。勉強する場所に来るのにも介護が必要な人もいる。世の中から、働くことは無理だから福祉の対象の人とみなされている。それにもかかわらず、彼らは「働きたい。働けるようになるために勉強したい」といって集まっているのです。

 働くとはどういうことか。学生のみなさんでもおわかりと思います。働くということは、自分で自分を支えていこうという意思であると同時に、自分も社会を支える一員であろうという意思です。重い障害を持つ何人かの人が、その意思を持ったんです。だから、「勉強する」といっている。すごいやつらなんですよ。同情とか慰めの気持ちでコンピュータやソフトウエアや人やお金が集まるのはいやだ。乞食にはなりたくないと思いました。

ビジネスベンチャーとソーシャルベンチャーのタッグ

 私はコンピュータ会社のトップの方やソフトウエア会社のトップの方に、「私たちプロップ・ステーションの勉強会から、必ずあなたの会社がほしくなるような人材が生まれてきます。あるいは、日本はこれから少子高齢社会に進むといわれています。高齢社会というのは、見えにくくなる人が増えるんじゃないでしょうか。聞こえにくくなる人も増えるんじゃないでしょうか。重い物を持てないとか、難しいことを考えるのが苦手という人も増えるんじゃないでしょうか。そのときに、コンピュータが今みたいに使いにくい、難しい、一部の人しか触られないものでは、コンピュータのシェアはたぶん広がりません。21世紀の ―そういうお話をしたときは、まだ20世紀だったんですが― 超高齢社会といわれる日本で、コンピュータがシェアを広げるためには、今のコンピュータからもっと変わっていかねばならない。どう変わっていったらいいのかを、私たちの勉強会が、自分の体を使ってちゃんと証明したり提言したりします。ですから、決して同情していただく必要はありません。一切同情はいりません。先行投資と思ってください」と申し上げたわけです。

 ずうずうしいといえばずうずうしいんですけど、これはまったく私の本音でした。そこまでのことをいって、わかっていただけるだろうかと思いながら、でも、本音でしゃべろうと、同情でものをもらってくるのはやめようと思ったわけです。

 すごいことに、私が出会ったその当時のコンピュータ業界のトップといわれる方々は、みなさん、私の言葉にすごく納得してくださった。「ナミねえ、あんたのいうこと、ようわかる」と。

「障害者の人たちの集まっているところに、コンピュータを寄付してくださいといわれて寄付したこともある。しばらく何も連絡しなくて、久しぶりに行ってみたら、コンピュータが風呂敷かぶって、上に花瓶が飾ってあった。聞いてみると『いや、やっぱり使える人がおらへんかったから』とか、『使い方がわからへんかったから、こうなりましてん』と。でも、ナミねえがいってることは、ビジネスをやっている自分から見たらすごくよくわかる」といってくれました。

 コンピュータというのは、アメリカから発達して日本にも入ってきた道具なので、そういう業界のトップの中にはアメリカビジネスを熟知している方もいて「アメリカでは、自分たちのようなビジネスベンチャーと、ナミねえがやっているようなソーシャルベンチャーといわれるものががっちりスクラムを組んで、世の中を変えていってるんです。日本にはまだまだソーシャルベンチャーというようなものはないと思っていましたが、ナミねえの話を聞いてたら、ソーシャルベンチャーがありました」といわれました。

 その方は実はマイクロソフトの日本法人の社長をしていた成毛眞さんです。9年ぐらい日本法人の社長(1991〜2000年)をして、マイクロソフトの日本の売上を世界の2位にまで持っていって、そして、もう飽きたとかいって辞めてしまった。すごく不思議な人ですけど、天才的なマーケティングの人でした。

 私は、コンピュータや情報技術で、自分の力を世の中に発揮するという人たちが、本当にそれができるようになるとしたら、いわゆる福祉の世界の「障害者は気の毒だから何とかしてあげよう」という世界の人と手を組むんじゃなくて、本当に彼らが求めているプロセスを踏むことができる、専門の世界の人たちとタッグを組むしかないと思ったのです。そしてがっちりタッグが組めたときに、彼らは社会を切り開く側に、社会を変えていく位置にいることができる。それが私の確信でした。

 コンピュータが勉強できる場所があって、超一流の技術を教えてくれる人がいる。「稼ぐためには実はこういう裏技があるねん。このプログラムのやり方は……」ということをちゃんと教えてくれる人がいる。そして、営業部隊がいて、仕事を取ってくる。バックオフィス(事務管理部門)は事務系の得意な人が担う。そういう態勢があって初めて、障害者が稼げる人になっていく。そのプロセスで「この人らは働けへん。気の毒や」という世界の人と組むということは、私の頭の中にはゼロでした。

ビジネスベンチャー
新技術や高度な知識、開発力をもとに、新しい事業分野における新規商品開発やサービスを行なうために創設される事業や企業。ベンチャー企業は創業まもないながら急成長していく企業をいう。

ソーシャルベンチャー
ビジネススキルと革新的なアプローチで、特定の社会問題の解決を目指す社会起業家が立ち上げた、組織やプロジェクト。自らの事業で社会貢献を行なう。NPOのほか、営利法人もある。

「してあげる」福祉は破綻する

 日本の福祉の世界は「障害があるから、あるいは年を取っているから、その人は社会の真ん中で活躍することは無理」という大前提があって「そういう人たちは税で何らかの手助けをしてあげねばならない」という考え方が主流。だから「その人たちのためにたくさん税金を取ってきてあげる」のが、よき福祉家であり立派な福祉事業家でした。それが日本の福祉の構造でした。

 ですが、今の年金の問題とかいろんな社会保障の問題を見ておわかりのように、そろそろそういうものは破綻する。誰かに頼っていく福祉、あるいは弱い者であることを強調して、それによって何か手当が付いてくる福祉という形は限界が来ている。

 本当は、限界はもうずっと前から来ていたのですが、見ないようにして「袖が振れる間は振ったらええやん」ということで、日本はずっとやってきた。いよいよそれが難しくなって表に出てきたということでしょう。ですけど私自身は、日本がそのような状況になるというのは、ずっと昔からわかっていました。
  なぜ私はわかっていたか。

 話が突然飛ぶようですが、実は私は子どもが2人おりまして、上が男の子で今年37歳、下が女の子で34歳です。

 ちょっとだけ質問していいです? 気持ちよく手を挙げてほしいんですけど、「ナミねえは、とてもそんな大きな子どもがおるようには見えなかったわ」という人は、ちょっと手を挙げてもらえたらうれしいんですけど(学生挙手多数)。

 ありがとうございます。一応、お約束で聞いてみようかなと(会場笑)。

 団塊の世代が一気に、働く人から社会の福祉の受け手というか、年金の受け手になっていく。それが少子高齢化の一番大きな問題、日本の福祉のバランスを崩す元凶といわれる。まさに私もその団塊の世代なんでございます。

 その団塊世代の私が授かった2人の子どものうちの下の娘は、34年前に重症心身障害という大変重い脳の障害を持って授かりました。今、彼女は34歳になってますけど、まだ私のことは母ちゃんと認識しておりません。視力も知力も身体もすべてが赤ちゃんのような状態。私はベビータイプと呼んでいるのですが、そういう赤ちゃんのような状態です。

 彼女を授かってから、障害を持つ子どものお父さんお母さんとのお付き合いがたくさんできました。ほとんどの人が、「私な、この子よ1日でもあとに死にたいねん」といいます。つまり、こういう子を残して安心して死ねないと、ほとんど全部のお父さんお母さんが思っている。

 それどころじゃないです。私の娘の重い脳の障害がわかった瞬間に、私の父親 ―娘からすればじいちゃんですが― は、私が抱いていた赤ん坊をガバッとひったくって、真っ青な顔になって「わしがすぐにこの孫を連れて死んだる」といったのです。
  「お父ちゃん、なんでそんなこというねん」
  「こういう子を育てていくのは、おまえがすごいしんどい目に遭う。すごいつらい思いして、すごい不幸な目に遭うねん。わしはおまえがかわいい。そやから、おまえがそんな目に遭うのは、わしはよう見とらん。今やったら、まだこの赤ん坊、ちぃそうて何もわからへんから、今の間にわしが連れて死んだる」というわけです。
  こういう子は生きて家族に守られて育つより、あるいは社会に守られて育つより、今死んだほうがましだ、そんな国だと父ちゃんはいう。
  「ちょっと待ってよ」と私はいいました。絶対父ちゃんと娘を死なせたらあかんと思いました。「それ、頼むからやめてくれ」と。私は父ちゃん大好き。どちらかというとファザコンでした。赤ん坊の娘と一緒に死なれたらたまりません。

 そのときに私は父ちゃんにいいました。
  「私が不幸になる? そんなこと、決めつけるもんちゃう。私が幸せか不幸かっちゅうのは私が自分で決めるから、勝手に決めんといて。なんぼ親でも、そんなことを決める権利ない。私は絶対この子と一緒に幸せになる。父ちゃんがいうように、いやなことや、つらいことや、しんどいことはあるかもわからん。だけど、元気に楽しくもやれるっていうことを絶対見せるから」と話しました。おかげさまで、ご覧になってわかるように、元気で楽しくやっています。

 ただ、そのときに、父ちゃんのいうことが理不尽なのではなく、そう考える親や祖父を生み出している日本の仕組みというのは何なんだ、と思わずにはいられませんでした。

年金の問題
国民年金や厚生年金などの公的年金は、現役世代の年金保険料で同時代の年金給付を賄う「賦課制度」を採用しているため、若者が多く高齢者が少ないほど、納付負担金が減る。近年、少子高齢化が急速に進み、納付金と給付金のバランスが崩れ、これからは年代が下るほど、負担が増えて給付が減ることになる。政府は2007年度から順次、年金制度改革を進めていく方針だが、社会保険庁による年金記録漏れや、将来予測される受給年齢の引き上げなどをめぐって、国民の問に不安感が広がっている。

社会保障の問題
社会保障制度は、国民が、傷病、高齢、失業、障害などにより所得が減少するなど、生活がおびやかされた場合に、国が主体となって国民に健やかで安心できる生活を保障する仕組み。社会保険、生活保護などがある。国の財政が悪化する中、財源や運営について議論されている。

日本の非行少女のはしりだったナミねえ

 日本はGNP(国民総生産)世界1位、2位とかいって、経済大国といわれ、あのすごいバブルも経験しました。経済、経済で走ってきた豊かな国です。本当に食えないという人はたぶん、今日このように大学には来ておられないでしょう。高校だけでも97%の進学率です。いろんな意味で、世界の中、アジアの中で、これだけ発展している日本。その日本でまだ「この子を残して死ねない」という人や、「連れて死んだほうが幸せ」という人がいる。おかしいじゃないですか。

 私は、これは社会の構造の問題だろうと思いました。社会の構造の問題であるとしたら、社会を変えたらいいんじゃないか、というのが私の出した結論だったわけです。

 実は私、みなさんがうすうす感じておられるように、子どものころからめっちゃワルでした。自慢じゃないですが、日本の非行少女のはしりといわれました。そりゃ悪かったです。親不孝の限りを尽くしたワルでした。

 ですから、もともと世の中のルールとか、これが正しいことよというようなことを −これはみなさんにお勧めするわけではないんですけど― 「ケッ」とかいって、ちょっと斜めになって見るとか、「私はそんな良い子にはなれへんわ。なる気もないし」みたいなところがあった。学校は嫌いで、勉強も嫌い。ちなみに学歴は中卒です。本当に勉強がだめだった。さんざん不良して親不孝した。そんな娘だった私が、重度障害の子どもを授かったとき、父ちゃんは「おまえのために孫を連れて死ぬ」という。私は初めて「自分にできるやり方で日本の構造を変えられるやろか」と考えました。

 障害がどんなにあっても、その子が不幸ではない日本。かわいそうではない日本。確かに障害があればいろいろな不便なこともあるでしょう。介護もその手立てもいるでしょう。だけど、そのことをイコール不幸とか、かわいそうとか決めつけるのではない日本に変えられるだろうかと。

 人が一番幸せを感じるのは何でしょう。充実感を感じるときはいつでしょう。あるいは自分の存在に誇りを持てるのはどんなことでしょう。いろんな形で人は幸せを感じたり充実感を感じるでしょうが、やはりそれは、自分で自分がいとおしく思えたり、人からも存在価値を認められるときではないでしょうか。頼れる人と思われたい、期待されたい、そういうときに、人は誇りを持って生きられるのではないでしょうか。

 世の中から頼りにされず、頼りにしてはいけない人と決めつけられているということは、それは銭金だけの話ではなく、すごく大きなものが奪われていることだ。日本の福祉は、まさにそれをやってきたと痛感したわけです。

 34歳の娘は、私のことを母ちゃんとまだよくわかっていません。視力はかろうじて明るい暗いがわかる全盲で、音は聞こえてますけど、その音が何を意味するか一切わかりませんから、私が話しかけている言葉の意味はもちろんわかりません。声は出るんだけど言葉はしゃべれない。でも、体は、グニャグニャだったんですけども、少しずつしっかりしてきて、ここ数年、手を引くとちょっと歩けるぐらいになりました。そんな状態です。

 彼女はもちろん、コンピュータを使って稼ぐなんていうことは無理でしょう。ですけども、彼女がいたから、そして彼女を通じてたくさんの障害のある人たちと出会ったから、プロップ・ステーションという活動があり、今私がナミねえとして、こうやってみなさんにお話をしているわけです。

 そう考えると、娘はすごいやつじゃないですか。私は彼女がかわいそうと思ったことは一遍もないし、人にかわいそうと思ってほしくない。私にとって、すごいやつなんですから。

 私を「ナミねえ」にしたのは彼女なんです。たぶんみなさん一人ひとりにも、今のみなさんをみなさんにした人がいるはずです。そういうふうにして連綿と、人と人が支え合って生きていける、誇りを奪わない仕組みをつくっていけるんじゃないか。そう思ったのが、プロップ・ステーションのこの16年でした。

バブル
1980年代後半、金融緩和を背景に株価や地価が高騰し、多くの企業が株・不動産への投機、過剰な設備投資、大量雇用を行なった。結果、実力以上に資産価値が上昇し、いわゆる「バプル」となったが、90年にバプル経済が崩壊。株価の暴落と地価の下落が始まると、企業群は多大な債務を抱え、投機活動から債務圧縮への転換を迫られた。大企業や金融機関の倒産・破綻が相次ぎ、リストラが盛んになり、国民の消費活動も大きく低迷し、経済はその後10年以上停滞した。

できないと決めつけた福祉の不幸

 おかげさまで一流のコンピュータ業界の方たちが参画してくださって、たくさんの重度の障害者といわれる人たちが在宅であるいは施設のベッドの上で、働いています。最近は、身体の障害だけではなくて、知的な障害を持っておられたり、重い自閉で対面ではコミュニケーションが取れないような人も参加しています。実は対人関係のコミュニケーションは難しいけれども、機械との相性がすごくいいという人がいる。顔を見合わせると会話が成り立たないのにチャットではしゃべるとか、入力の仕事は正確だとか、すごくうまいグラフィックを描くというような人がごろごろいます。

 不思議なんですが、これはまだ医学的には解明されていない。脳の科学とか人間がなぜ人間として存在するのかということは、解明されていないんですね。私たちは「知りたいな」とポロッというけど、知りたいという気持ちはどんな働きで出てくるかということすら、まだ解明されていない。だとすると、人間が「この人にはこんな障害があるからこれができない」と決めつけるほど不遜なことはないです。

 その人ができることは何か探して、できることをできるようにするシステムをつくることが、おそらく人間にはできるはずです。それをしないで、先にできないと決めつけたことに、日本の福祉の不幸があり、社会保障が大変になっている大きな理由があるのではないかと私は思っています。

 同時に、それは人の誇りを奪い、「困っているっていったら何かもらえるんやったら、もっと困ってるっていおう」というような状況まで生み出してしまった。これは決して障害の問題だけではないと思います。

 娘のことも含めて、プロップ・ステーションがこれまでどんなふうにしてきたか、これからどういうふうにしたいかというようなことは、ホームページやナミねぇのサイトや、あるいはこのごろはメルマガも発行しているので、そういうところでチェックしていただければと思います。

 大隈塾でお話しするのは3回目ですけれども、前回ともその前とも、全然お顔ぶれが違います。みなさんとお会いするのも今日が最後かもしれません。ですから、もうちょっとこれを聞いておきたいという方がいらっしやいましたら、遠慮なくお声を上げてください。ということで、とりあえずナミねぇの話を終わります。ありがとうございました。

チャット
インターネットによるコミュニケーションの1つ。「チャットchat」は「おしゃべりをする」という意味。インターネットのサイト上にある「チャットルーム」という部屋に入室し、書き込みをすることで、同時に入室しているユーザーと文字を通じたリアルタイムのやりとりを行なうこと。

メルマガ
「メールマガジン」の略。さまざまなテーマや発行頻度のものがあり、個人の電子メールアドレスに配信を受けて購読することができる。

 

質疑応答

人と比べて優越感を持つことに、そんなに意味はない


障害者を身近に感じられる社会にするために必要なことは?

岸井 どうもありがとうございました。もっとお話を伺いたいですが質問に行きましょう。その前に、おわびがあります。「チャレンジド」という言葉を、私は半可通で解釈を間違えて障害者を指すと思っていましたが、広い意味でいうと、ナミねぇもチャレンジドといえないこともないんですね。

竹中 はい、そうです。世界一の超少子高齢化に向き合う日本は、私は全部が今チャレンジドであろうと思います。問題をどうとらえるかという向き合い方です。

学生1 本日は「チャレンジド」という素晴らしい言葉と概念を教えていただき、どうもありがとうございました。
  質問ですが、障害者の福祉を向上させるためには多くの人に関心を持ってもらうことが必要だと思います。そのために、障害者がもっと身近に感じられる存在になることが必要なのではないかと思います。そのために社会で必要なことは何でしょうか。どうすればそのような社会になると思われますか。

竹中 どんな人にだって、マイナスのところはある。私にだってあるし、君にもあるでしょう。自分にとって不可能なところがあるように、どの人にも不可能なところ、苦手なところがある。だけど、苦手なところがあっても、自分のできることをみんなが発揮して、苦手なところはそれを得意とする人と組んだらいい。そういう新しい発想法に立って、世の中をみんなで支え合う。実は「プロップ」というのは「支え合う」という意味があるので、私たちのグループの名前にしました。支えられる側と支える側に線引きなんかせす、みんながみんなで支え合いっこする。

 みんな何かしら支える力を持っているのだから、その力に着目して、「みんなでそれを発揮できるようにしようよ」という考え方に立つ。支える側と支えられる側に分かれているのと、支え合いっこするのとでは、人間としての尊厳に大きな違いがある。

 「気の毒な人に気の毒じゃない人が何かをしてあげる」という福祉観がある限り、日本は決して変わることはできないです。福祉を一生懸命やろうという言葉の裏側にそういう考え方があれば、同じことの繰り返しになる。気の毒な人は気の毒なまま、かわいそうな人はかわいそうなままなんです。だけど、その人の中にあるものと自分の中にあるものとを組み合わせて、いろんな人たちで世の中、やってみましょうということになればどうでしょう。

 弱者は厳然といます。この弱者を弱者じゃなくしていくプロセスを福祉と呼ぼうというふうに変えることによって、福祉あるいは社会保障、日本の国柄、あるいはみなさんの未来は、大きく変わるんだろうと思います。

 私はそちら向きに変えたいと思って行動しているのです。これからみなさんが「福祉」という言葉を使うときに、どちらの立場に立ってものをいわれるかによって、日本の未来は決まると思います。

 私はそちら向きに変えたいと思って行動しているのです。これからみなさんが「福祉」という言葉を使うときに、どちらの立場に立ってものをいわれるかによって、日本の未来は決まると思います。
岸井 若いうちは特に、積極的にできるだけいろんな人と接する場を自分から探すことがものすごく大事です。私は新聞記者になって初めての赴任地は、熊本県の水俣市でした。水俣病サリドマイド児の取材から始まった。そこで、新聞記者になったときの目的とか人生観というものが、まったく変わりました。

 この間、スペシャルオリンピックスの記録映画を、ダウン症の子どもたちがつくった。私はそのアドバイザーをやったんですが、彼らの感覚とか能力のものすごさに感服した。

 本当にチャレンジドな人に会うと、目から鱗どころではないです。人生観が変わる。自分の人生がどう進んでいくかの、大事なポイントになるんじゃないかという気がします。

水俣病
メチル水銀化合物による中毒症。中枢神経が侵され、手足のしびれ、言語障害、運動障害、目や耳の機能喪失を起こし、重症では死亡することもある。水俣市で1953年ごろから発生、公式には56年確認とされる。化学工場の廃水中に含まれるメチル水銀化合物が海水を汚染し、魚介類に生物濃縮され、それを食べて人体内に入るのが原因。59年に熊本大学医学部研究班が原因を解明したが、政府が公害病と認定したのは68年。この遅れが、被害を拡大させた原因の1つといわれる。

サリドマイド児
サリドマイドの薬害により手足などの奇形障害を発症した被害者。サリドマイドは、ドイツの製薬会社が開発した催眠剤で、1957年に商品化、市販された。61年11月、妊娠初期の妊婦が服用すると胎児に独特の奇形が生じる疑いがあることがドイツの小児科医により発表され、ヨーロッパではすぐ回収が始まった。日本では大日本製薬が独自開発し58年1月から販売開始。62年9月、販売停止・回収。74年10月、東京地裁で全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との問で和解が成立。

スペシャルオリンビックス
知的発達障害のある人たちの、オリンピック競技種目に準じたさまざまなスポーツトレーニングとその成果の発表の場である競技会。またその運営にあたっている非営利の国際的なスポーツ組織。1961年、ケネディ・アメリカ大統領の妹ユニス・ケネディ・シュライバー夫人が、自宅の庭を開放し開いた「デイ・キャンブ」が始まり。本部はアメリカのワシントンDC、165カ国以上でポランティアスタッフと寄付金によって運営されている。2005年2月長野で冬季世界大会が開催され、記録映画が撮影された。

ダウン症
遺伝子の染色体が通常より一本多いことにより、知的発達の遅れや、心疾患などの合併症を伴うこともある先天性の症候群。

自分自身に誇りを持って生きるにはどうしたらいいのか?

学生2 貴重なお話をありがとうございました。私はふだん、自分はあの人よりも勉強ができる、自分はあの人よりもやせている、といった目に見えるデータで、自分自身の心を安定させてしまうんです。それが、障害を持っている方々を見た目で判断して、自分より劣っていると、差別的な意識を生んでしまうことにつながっているのかなと考えているのですが、他者と自分を比べることではなく、自分自身に誇りを持てる。そういう生き方をするには、どのようにしたらいいのかを伺いたいです。

竹中 とっても重要な部分ですよね。人と比べるというのは誰でもすることです。するなといわれても、つい人と比べてしまうと思う。でも、少なくとも「比べて落ち込んだり、比べて優越感を持つことにはそんなに意味はないよ」と、自分で自分にいい聞かせてみることはできると思います。

 うちは障害のある娘と上の兄ちゃんは3つ4つしか違わないのですが、ある日その兄ちゃんが外からハッハッと息を切らして走って帰ってきて、「歩いてる赤ちゃんがおった!」といった(笑)。「赤ちゃんかて、普通は1歳ぐらいやったら歩くのや」といったら、「そうか」と。「そやけど、歩かへん子もおるしな」というと、また「そうか」と。それで終わりだったんです。

 しばらくして、また遊びから帰ってきて「Aちゃんのお母さんがな、妹があんなんでかわいそうやなあ、大変やなあっていうたんやけど、僕ってかわいそうな子?」という。「なんか悲しいことあったか?」と聞き返すと、「別にないけど」。「ほな、ええんちゃう?」と、こういう会話をしょっちゅう交わしていた記憶があります。

 人と比べて優越感を持ちたいという気持ちは、悪とまではいわないけれど、優越感を持つのも卑下するのも、どちらも自分がどちらかにブレている感じがします。

 「自分自身に誇りを持て」なんて□先でいっても、なかなかできるものではないけど、自分という存在は世の中に絶対一人しかいないし、その自分を自分か大切だと思わなければ、ほかの人のことだって本当の意味で考えてあげることはできないんじゃないかな。自分を大切にするときに重要なのは、相手の人も自分を一番大切に思っているだろうことを理解できるかどうかです。そういう付き合いができるかどうか。それができると、やみくもに比べて優越感を持ったり卑下したりするのは、自分にとってプラスじゃないことがわかるかと思います。

 でも、私ももうちょっとやせたいなと思いますしね(笑)。スタイルのいいほっそりした人を見たら、私のウエストはどこへいったんやろと思います(笑)。比べないことはあり得ないんですけど、それが自分の人生にかかわるような問題だと、比べることによって自分がものすごく惨めになったりするので、やはり比べることにはそんな大きな意味はないと私は思っています。

岸井 ありがとうございました。残念ながら時間が来てしまったので、これで終わりたいと思います。今日から、福祉の対象とか障害という言果の前に「チャレンジド」という言葉を思い描くと、発想を少しずつ変えていくきっかけになるかもしれないですね。今日は本当にありがとうございました。

 

田原総一郎の講義メモ

第7章 竹中ナミ氏

 人が一番幸せを感じるとき、充実感を覚えるときはいつだろう。それはほかの人、世の中から頼りにされるとき、存在価値を認められたときだ。手をさしのべるだけの福祉、与えるだけの福祉では、そうした「幸せ」を奪うことになる。私たちはチャレンジドの人たち、あるいは高齢者によかれと思ってやっていることでも、その人たちの人としての尊厳を傷つけているかもしれない。ナミねぇは、そう教えてくださった。

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