さあ、言おう 2007年5月号より転載

すべての人が誇りを持って生きられる社会を目指して

社会福祉法人プロップ・ステーション理事長 竹中 ナミさん(58歳)

[写真]竹中ナミ

「障害者イコール弱者」と決めつける福祉政策に反発。「障害を持つ人は、神から挑戦という使命やチャンスを与えられた“チャレンジド”」だと言い、障害をマイナスではなくプラスの種と捉え、自分のため、社会のために生かしていこうと、そのシステムづくりに取り組む女性がいる。『プロップ・ステーション』の理事長を務める、「ナミねえ」こと竹中ナミさんがその人だ。その強烈な個性と反骨精神に裏打ちされたパワーは多くの人を巻き込んで、今、時代に大きなうねりを起こそうとしている。

(取材・文 城石眞紀子)

「学歴は中卒。バツイチで障害児の母ちゃん。それに年齢と体重のハンディを加えれば、まさに五重苦もん(笑)。ああ、私のことは“ナミねえ”で、ええですよ。“竹中さん”なんて呼ぶ人は、誰もおらんねん」

明るい人柄と軽快な関西弁で、こんなふうに気さくに話しかけるから、大体の人がファンになる。口癖は「チャレンジドを納税者にできる日本!」。

遡ること16年前、「IT技術を駆使して、最重度の障害を持つ人までが、持てる力を発揮できるようにしたい」と、兵庫県神戸市に『プロップ・ステーション』(略称・プロップ)を設立。コンピュータ・セミナーを開催し、さらに技術を習得したチャレンジドには就労を支援。在宅で介護を受けながら働くチャレンジドの数は、いまや約300人にものぼるという。

「去る2月13、14日には、厚生労働省のパソコンセミナールームにおいて、”遠隔教育システム(TV会議システム)”を使い、京都市と仙台市の自宅から2人のチャレンジドが講師となって官僚・企業人にIT講習を行うという、日本初のモデル事業も実施しました。チャレンジドの能力や意欲を世の中に知らしめる絶好の機会となった。そんな手応えがありました」

[写真]ITセミナー会場
厚生労働省のITセミナーの様子は、多くのマスコミにも取り上げられた

すべての始まりは障害を持つ娘の誕生から

今でこそ、障害者の自立支援を訴えて国の内外を飛び回り、内閣府の中央障害者施策推進協議会委員をはじめとした、30を超える委員も務めるが、「もともとはごっつい不良。レールから外れたことばかりやってきた」というナミねえ。
「小学生の頃から家出を繰り返しては何度も警察の厄介になり、挙げ句の果てに高校1年で同棲。不純異性交遊で高校は除籍となり、16歳で結婚し、世間でいうところの”幼な妻”になりました」

そして、22歳で長男を出産。その3年後に生まれた長女に重度の脳障害があることがわかったのは、生後3か月目のこと。ナミねえの、その破天荒な奮闘と活躍はここから始まった。
「娘の麻紀に障害があると言われても、正直、ピンと来ませんでした。それで実家の両親のところに、どう育てたらいいのかを相談に行ったら、いきなり父が麻紀を引ったくるようにして抱き抱え、”わしがこの孫連れて死んだる!”と叫んだんです。”お前がこういう子を育てて、不幸な目に遭うのをよう見とらん”と。私はハチャメチャをやってきたけど、父には溺愛されてきた。その父が血相を変えて言うんやから、これは本気だと思いました。そんなことは絶対にさせたらいかん。そのためには、麻紀がおっても元気で楽しくやってる姿を見せなあかん。それに、”こういう子”って言うけど、障害がある子を持ったらどうして幸せになれんのか? 幸せ、不幸せは自分で決める。そう決心したんです」

[写真]ナミねぇと麻紀さん
「娘は私にとっては四つ葉のクローバー。自然の中では異端やけど、幸せのシンボル」と話すナミねぇ

こんなおかしな社会は変えなあかん!

どうすれば、障害を持った娘と楽しく生きていけるのか。慰めの言葉はかけられても、誰もそのヒントを示してはくれない。「ならば、自分で探すしかない」と、ナミねえは日々の療育のかたわら、障害児の医療・福祉・教育を独学。さらに、「障害のことは、当事者に聞くのがイチバン」と、手話通訳やおもちゃライブラリーの運営といった数々のボランティアにも携わった。
「そうして娘を通じていろいろな障害を持つ人と出会う中で、人間って、すごい!と、彼らの持つ可能性に気づかされたんです」

たとえば、スポーツ事故がもとで全身が麻痺しても、わずかに働く左手の指先で経営管理ソフトを開発し、家業のマンション経営を継いだ青年オーナー。また、下半身不随でも一人暮らしをしながら、自宅で学習塾を開いている人もいた。自分で仕事をして収入を得、さらにいろいろな人たちと関わりを持っていた彼らは、皆生き生きとしていた。

「求めているのは憐れみではなく、自分も誰かの役に立てる存在だという誇りなんだな、と思いました。なのに、”障害者は可哀想な人”と決めつけ、”あてがわれた福祉予算の中でおとなしく生きなさい”というのが、いまの日本の福祉システム。もちろん、働きたくない人や働けない人に無理を言うつもりはない。けれども、働きたい人がいるのなら、そういう環境を整えればいい。チャレンジドに就労の可能性を開くことは、フルタイムで働くことはむずかしい、育児や介護に携わる女性や高齢者にも社会参加の機会を広げることにもつながる。そうしてすべての人が持てる力を発揮して、支え合う社会をつくっていかないと、娘を残して安心して死なれへん。このままじゃあかんと、私の中の不良魂に火がつきました(笑)」

目指すはユニバーサル社会の実現

こうしてプロップを立ち上げ、チャレンジドの自立支援を始めたのが、1991年5月のこと。まだ、「NPO」という言葉すら一般的でなかった時代。草の根の任意団体で、発足メンバーはわずか4名。資金も虎の子の貯金を合わせて100万円しかなかったが、「達者な口と、苔が五重に生えた鉄の心臓」を武器に、ナミねえは支援者のネットワークづくりに励んだ。

「私自身はいわば、娘可愛さのおかんのわがままからこの活動を始めたようなもんやけど、この”ニッポン変えてやれ”計画には、多くの人が共鳴。急速に進む少子高齢化に危機感を抱き、今のうちに手を打たないと大変や!と、真剣に考える人たちが仲間になってくれたのです」

気がつけば、その輪はチャレンジドやその家族だけでなく、政官財などさまざまな分野で活躍する人たちにまで広がっていった。マイクロソフト・ジャパン社長(当時)の成毛眞さんもその一人で、98年の社会福祉法人格取得の際には、なんと基金1億円を支援してくれたそうだ。

[写真]ビル・ゲイツ氏とナミねぇ
マイクロソフトの会長ビル・ゲイツ氏とも親交が

「何でも自分たちでやろうと思ったら、それが足かせになって何もできんようになる。ないものはSOSを出して、お金も人材も機器も、助けてくれる人の協力で揃えばいい。プロップはそうやって、階段を一段ずつ上ってきたんです」

その手法がまた痛快だ。企業に対しては、「これは寄付ではなく、先行投資です」と言って口説く。行政への働きかけも正面から門を叩いて陳情するのではなく、「仲間になってくれそうな人を見つけて、内側からかんぬきを開けてもらう」方式。そして、「彼らの力を試してください。ええ働きしまっせ!」と、仕事を発注してくれるクライアントを次々と開拓してきた。

「こういう活動は明るく、楽しく、元気にやらんとね(笑)。考えてみれば、今年34歳になる麻紀は、長男が1年で達成した発達の道筋のいまだ途上におる。マイナスの部分だけ数えたら、何のために生まれてきたかわからんけど、親や教師もできなかった私の更生をしてくれた。すごい奴でっしゃろ?人にはそれぞれの存在価値があり、役割があることを、私はこの娘から学びました。だからこそ、すべての人が誇りを持って生きられる、ユニバーサル社会を実現したいんです」

昨年4月には、その成立を推進してきた「障害者自立支援法」が施行。さらに今は「ユニバーサル社会基本法」の実現に向けて尽力する日々。社会は確実に変わりつつある。「チャレンジド」という言葉には、「すべての人には自分の課題に向き合う力があり、課題が大きい人にはその力もたくさん与えられている」という意味が込められているという。ナミねえ自身もまた、必然を持って選ばれたチャレンジドなのかもしれない。

[写真]パソコンセミナー
さまざまな障害を持った人たちが就労を目指して受講する、プロップのパソコンセミナー

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