それぞれの願い 2006年12月発行より転載

多様な可能性に挑むことができる社会に向けて

それぞれの願い

●ユニバーサル社会(共生と共助の社会)の実現をめざして 竹中ナミ

プロップ・ステーション(略称:プロップ)で学び、働くチャレンジドの多くは、日常生活を営む上で何らかの介助・介護を必要としていますが、ITが彼等(彼女ら)の潜在的な力を社会に引き出す大きな役割を果たしてきました。

コンピュータは、手指以外に、足、口、瞼など、身体のどんな部分であっても、僅かでも自分の意思で動かせたら「入力装置」を接続することが出来るからです。また最近ではパソコンのハードとソフトが発達したために、身体障害以外のチャレンジドにとっても重要な道具になっています。プロップのセミナーでは、知的ハンディあるいはLDや自閉症や精神障害のチャレンジドもITを学び、それぞれの個性と能力を発揮しています。

ITは、国際的には「ICT」と呼ばれており、「C」は、コミュニケーションの「C」です。つまり情報技術は本来「人と人の、あるいは人と社会のコミュニケーションに役立つこと」が大きな役割なのです。

自分の個性や能力を社会で生かすためには、チャレンジド個人の努力だけではなく、社会全体が「障害によるマイナス部分のみを見るのではなく、一人一人の可能性の部分に着目し、それを引き出す技術や制度を生み出すこと」が欠かせません。人は障害の有無に関わりなく「誰かから期待されている時」自分に誇りが持てます。マイナスだけに着目する福祉は、いくらそこに「慈愛」が込められていても、人の誇りを奪うことに繋がります。

今「もったいない」という素晴らしい言葉が再クローズアップされていますが、「人の眠らせるほど"もったいないことはない!"」というのが私の持論です。

人が自分や社会に挑戦する意欲を持つためには、社会全体の意識の転換と同時に、その人が「支えられる存在」であるだけではなく「支える側にもなれる」柔軟なシステムが必要です。

私の娘は33年前に重い脳障害を持って生まれ、重症心身障害者として全介護を要する状態で現在に至っていますが、彼女から私は「色んな人が居る。それが社会なんや!」「人の成長のスピードは、一人一人違って当たり前」ということを心底学びました。ですから彼女は私の恩師であり、同時に私の宝物です。娘は「日本の非行少女のハシリというようなワル」であった私を現在の私に育て上げた人です。したがってプロップの活動は、娘の支えによって続けられているといって過言ではありません。私は自分にとって誇らしい存在である娘を、「可哀想」と呼んで欲しくないと強く思っています。

プロップでは「障害者」というネガティブな呼称ではなく「チャレンジド(挑戦という使命やチャンスを与えられた人を表す米語)」という言葉を使うことによって、すべての人が「支え合うという誇り」を持って生きられる「ユニバーサル社会」の実現をめざしています。

「ユニバーサル社会」を日本語で表現するのはなかなか難しいのですが、敢えていうならば「共助社会」でしょうか。人がみな、自分の身の丈にあった活躍ができ、お互いに尊重しあい、支え合うことができてはじめて、持続可能な日本を生み出すことが出来ると私は信じています。そして、そんな社会が創造された時、私は娘を残して安心して死んで行けると確信しています。「ユニバーサル社会(共助社会)」の実現をめざして、一人でも多くの方が「人のマイナス部分ではなく可能性に着目し、それを引き出す行動」を起こして下さることを願っています。

[写真]竹中ナミ竹中 ナミ
社会福祉法人プロップ・ステーション理事長
1948年、兵庫県生まれ。重症心身障害の長女を授かったことから、独学で障害児医療・福祉・教育を学ぶ。91年、プロップ・ステーションを発足、98年、厚生大臣認可の社会福祉法人格を取得、理事長に就任。ITを駆使して障害者の自立と社会参画、とりわけ就労を支援。95年より毎年チャレンジド・ジャパン・フォーラム国際会議を主宰。財務省財政制度等審議会委員、内閣府中央障害者施策推進協議会委員等を歴任。

 

●夢をかたちに くぼ りえ

私は、生後6ヶ月で、ウェルトニッヒ・ホフマン病(SAM2型)と分かりました。全身の筋力が低下していく難病です。生活の全てにおいて介護が必要です。今は24時間両親の介護を受けて、自宅で車椅子生活をしています。

自力で座る事もままならないような重度ですが、幸いにも保育所から短大まで、大勢の方々の支援に支えられて、希望通りの地域の普通学校で勉強する事ができました。友人も沢山でき、勉強したり、遊んだり、悩んだりして過ごせて本当に良かったと思います。充実した学生生活でした。

中学1年の時、自分の進路について考える授業があり、3歳の頃から趣味で習っていた大好きな絵が描ける絵本作家を目指そうと決めました。洋画研究所に通ったり、中学、高校では美術部に入部したり、京都の美術短大に進学、その後もひたすら絵本作家を目指して、絵の勉強をしたり、個展を開いたりしていました。

勿論、絵を描くときには「絵筆を持つこと」「水をくむこと」「絵の具を絞り出すこと」などなど全てにサポートが必要ですが、母や絵の仲間たちに支えられて、描き続けてきました。

絵本作家への道はなかなか厳しく、コンクールには落選、出版社でも不採用が続きました。大人になったら経済的に自立したいと考えていた私は、働きながら何とか絵本作家を目指し続ける方法はないかと模索しました。

そこで、私にできるアルバイトがないか考えていた時、新聞でコンピューターを活用して障害者の自立と就労を目指して支援をしているプロップ・ステーションの活動を知りました。プロップ・ステーションのグラフィックセミナーに通った事は様々な障害を持った方との出会いもあり、CGの勉強をしたり、インターネットの世界も知り、大きなプラスになりました。

セミナーに通い始めて1年程で、少しずつインターネットとパソコンで収入が得られるようになりました。現在もアルバイトで得たお金で絵具を買い、本業の絵本を描いています。今まで、2冊の絵本を出版する事ができました。

イラスト制作の仕事も、プロップ・ステーションのコーディネイトで企業から受けていますが、一昨年から、ある化粧品会社のカレンダーに私の絵を採用して戴き、お陰様で好評を得ることができました。「来年も依頼します」と言って戴けたことを大変嬉しく思いながら、体調の良い時に、ゆっくり12枚の絵の構想を練り、作品にしあげようとしているところです。仕事は、企業の依頼に合わせて、メールや電話で連絡を取りながら、手描き、又はパソコンで使って制作して納品します。本業の絵本制作は一番得意の手描きの水彩で描いて、出版社に売り込みをして仕事を得ています。

どちらの仕事も締めきり日までに、求められるクオリティの作品を納品するという結果が全てです。厳さはありますが、通勤の必要が無く、時間配分も自分で管理できるところが私には都合の良い働き方です。今は、まだまだ経済的に自立しているとは言えないし、絵本作家としても、駆け出しですが、自分の可能な範囲で少しでも収入を得られるように、そして、好きな絵を描き続けていきたいと思っています。と同時に、どんな重度な障害が有っても、自分のやりたいこと、得意なことを仕事に出来る幸せを、一人でも多くの人が得られるような日本であって欲しいと願っています。

[写真]くぼりえくぼ りえ
プロップ・ステーション・バーチャル工房
在宅アーティスト・グループリーダー
1974年生まれ。成安造形短期大学卒業後、フリーイラストレーターとなる。生後6ヶ月後にウェルトニッヒ・ホフマン病とわかり、全身の筋力がほとんどなく、全介護が必要で、車椅子生活をしている。著書に、「バースデーケーキができたよ!」(ひさかたチャイルド)「およぎたい ゆきだるま」(チャイルド本社)がある。

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