潮 2006年7月号より転載

【特別企画】時代をひらく女性たち

障害者と健常者のバリアフリーを目指して。

ともに支え合うユニバーサル社会を目指す。

ナミよ、男に勝る女になれ

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竹中ナミ
たけなか・なみ
(プロップ・ステーション理事長)
兵庫県生まれ。1972年に重度心身障害の娘を持ったことをきっかけに、数々のボランティア活動に携わる。91年コンピュータ技術でチャレンジドの就労を支援する団体、プロップ・ステーションを設立。99年に社会福祉法人の認可を受け、理事長に就任。省庁・自治体の委員を多数兼務している。

「道で、車いすに乗っている人や白い杖(つえ)をついた人とすれ違った時、何を思います?」

ナミねぇこと竹中ナミさんは、ひまわりのような笑顔で問いかける。

普段、私たちは通りすがりの人に対して「お洒落(しゃれ)上手だな」とか、「やさしそう」とか、瞬時(しゅんじ)にいろんな印象をもつはずだ。ところが相手が障害をサポートするための道具を使っていると、「車いすとか白い杖のほうしか目に入らなくなるん違いますか?」

なぜか"健常者(けんじょうしゃ)"の想像力はストップし、障害者を十把一絡(じっぱひとから)げに「かわいそう」という色眼鏡(いろめがね)で見がちではないだろうか。

「でも、それって単なる刷(す)り込(こ)み。社会の慣習が人の感じ方までつくりあげてしまうんですわ。色眼鏡なんかはずして、いつもと変わらず相手の顔や服装を見てください。相手の何を見るかで、人と人との関係がホンマにフレッシュに変わりまっせ」

重いテーマも、まるで関西芸人のようにパワフルで軽妙(けいみょう)なノリで語られていく。ナミねぇの磁場(じば)に引き寄せられない聞き手は、まずいないだろう。年配者から子供まで、多くの人が初対面からごく自然に、親しみを込めて、"ナミねぇ"とニックネームで呼んでしまう。

ナミねぇは、ITを活用した障害者の就労(しゅうろう)や自立の支援活動を行う「プロップ・ステーション」の理事長だ。スローガンは「チャレンジドを納税者にできる日本!」である。チャレンジドとは、アメリカで用いられるようになった障害者を表す新しい言葉で、神様から挑戦する使命やチャンスを与えられた人々という意味だ。スローガンは、40年ほど前、アメリカのケネディ大統領が教書(きょうしょ)に記した「すべての障害者を納税者にしたい」という言葉が下地(したじ)になっている。障害者が働ける社会システムや環境をつくり、納税者になって皆で支える。身の丈(たけ)に合った義務や責任をきちんと負ってこそ、真の自立が実現するというわけだ。

ナミねぇが障害のある人の問題に関わる活動を始めたのは、重症心身障害の娘の麻紀(まき)さんを授かったことがきっかけだ。麻紀さんは視力がなく、耳は聴こえるけれど、その音の意味が理解できない。現在、33歳。でも知能は赤ちゃんくらいだそう。

「娘は私にとって四つ葉のクローバー。自然界の中では異端(いたん)やけど、幸せのシンボルです。娘のおかげで私もゴンタクレから更生(こうせい)しました」

ゴンタクレとは、関西で言う悪ガキを指す。ナミねぇは、神戸の下町で育った。子供の頃についたあだ名は「黒猿」「女ターザン」。木や塀が目の前にあると登らずにはいられなくなる。放浪癖(ほうろうへき)があって、線路づたいの遠距離歩きがお気に入り。任侠(にんきょう)路線まっしぐらの番長に頼まれると、果たし状を抱えて敵方に走り、胸をワクワク躍(おど)らせながら叫んだ。
「私の顔を立てて、果たし合いに行ってんか!」

中学生になると、夜の盛り場をさまよい、「ヤクザのオッサン」に出会って、キャバレーのトップホステスの家に居候(いそうろう)。プロとして自分の仕事に誇りをもつ「めっちゃカッコイイ姉さん」に、「こっちの世界に来たらあかん」と結局、ピシッと諭(さと)された。

「昔は、本当のワルとその手前には厳然(げんぜん)と線が引かれていました。麻薬・殺人・売春、この三つは境界線のあっち側の世界で、これを越えたら終わりだという自覚を持ちながら不良をしてました」

今の時代が怖いのは、この境界線がないこと。日常社会にいる普通の小中学生にまで、三悪が侵入し始めている、と"元不良"は憂(うれ)うのだ。では、ナミねぇの反抗の根っこには何があったのか。さぞ、親子の関係がこじれていたのではないかと思いきや、「家出しようが、警察に補導されようが、両親は全然怒りませんでしたね。私はまるごと溺愛(できあい)されてたんです。でも溺愛の仕方が父と母とでは全然違う」と。

母親は、戦前の旧家に生まれた。父親と長男は、一段高いところで尾頭(おかしら)つきの魚を食べ、女子供は土間(どま)でめざしをかじる。そんな典型的な家父長制(かふちょうせい)の家庭の中で、「男尊女卑(だんそんじょひ)はおかしいぞ」という思いを胸に募(つの)らせ、育ったらしい。

「ある時、私が生まれたころの育児日記を見つけたんです。そこには『ナミが夜泣きをしている。なぜ女だけが夜中まで赤ん坊の世話をせねばならないのか。ナミよ。お前はいつか必ず男に勝(まさ)る女になれ』と毛筆でしたためられてました。鬼気迫(ききせま)るものがあるじゃないですか」

「なぜ?」を探し求めた青春時代

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衆院予算委公聴会で意見陳述(共同)

我が子がゴンタクレなのも、社会がさせていること。いつか何者(なにもの)かになるためのステップである。母親はそう信じて疑わなかったのだ。だが、大きな期待をかけられ、何をやっても叱(しか)ることのない女性解放運動家の母親に対し、幼い娘がどこかでプレッシャーを感じ続けていたことは想像に難(かた)くない。

一方、父親は大正モダニズムの時代に、高下駄(たかげた)に黒マント姿で街を闊歩(かっぽ)していた京都帝国大学のバンカラ学生。本を売って金をつくり、カフェーの女給(じょきゅう)さんと一緒に青春を謳歌(おうか)していた。大会社に就職して幹部候補となるも、労働組合の賑(にぎ)やかなデモに向かって「つい感情移入し、手を振って応(こた)えてしまい」、レッドパージの余波(よは)で解雇(かいこ)される。なんと母親は赤飯(せきはん)を炊(た)いてこれを祝った。エリートコースに乗るような男は、外に女をつくって女房を泣かすに決まっていると考えていたからだ。

父親は「俺もたどってきた道だから」「お前の人生、好きなようにしたらいい」が口癖(くちぐせ)で、ナミねぇは常に大きな懐(ふところ)の中で見守られてきた。でも、両親から全面的に信頼される子供というのは、時にアンビバレンツな感情を抱く。なぜ疑いもなく子供を信じられるのか、でも愛されていたい、と。ともかく両親の全人的な愛情が、ナミねぇのエネルギーの源になったことは間違いないだろう。

ナミねぇは常に、素朴(そぼく)な疑問を抱(いだ)く子供だった。なぜ、学校に行かねばならない? なぜ、勉強をせねばならない? なぜ、大人の言うことは聞かねばならない? 木登り好きも、家出をしたのも、「俯瞰(ふかん)して見て、できるだけ離れたところへと広がりを求め」ながら"なぜ"の答えを探し続けていたからかもしれない。

「自分を活(い)かす、ここではない別の場所が、きっとどこかにあるん違うかっていう、青い鳥症候群(しょうこうぐん)ですね。その後も、バレリーナや漫画家、女優、いろんなものになりたくて、かじってはやっぱり違うなと次々にやめていましたから」

高校1年の時、バイトで知り合った若者に一目惚(ひとめぼ)れして同棲(どうせい)、そして結婚。高校は除籍(じょせき)。22歳で長男が生まれる。

「自分は好き放題(ほうだい)にのびのび育ってきたのに、息子は普通の子に躾(しつ)けなきゃいかんのかなぁ。これから普通の立派な母ちゃんにならんといかんのかなぁ。なんか嘘(うそ)っぽいなぁと感じてました」

24歳の時、麻紀さん誕生。世間が言う「普通」の子供ではないことがわかった時、ナミねぇは不思議な感覚に満たされた。解放感である。
「これで、敷(し)かれたレールの上を、無理して進まなくてもええんやってね」

大手を振ってレールからはずれることができる。主婦だから、親だから、こうせねばならぬというタガをポーンと放(ほう)り捨てたのだ。

ところが実家に娘を連れていくと、父親はこう言い放った。
「ワシがこの子を連れて死んだる。お前は絶対に苦労する、不幸になるんじゃ。娘のそんな姿を見たくない」

ナミねぇは仰天(ぎょうてん)した。父親は本気だ。父親を死なせないためには、自分たち親子が楽しく生きていくしかない。同時に、幸せか不幸せかは、自分で決めることだとも思った。

ナミねぇはクールに考えを巡(めぐ)らし、行動に移し始めた。あんなに勉強嫌いだったのに、図書館に通って障害について独学。医者を質問攻(せ)めにした。

「病院に回っていると、『大変やね』という同情の声ばかり。検査を受けても『重い脳障害です』と結果を言われておしまい。私が聞きたかったのは、障害があっても、これからどうやって楽しく生きていくか、その方法やのに」

教科書はない。絶対正しい道も示されない。ならば自分で納得できる答えを、自分で探すしかないではないか。まさにチャレンジドの精神に目覚めた、ナミねぇの宇宙的なスケールによる、プラス思考が展開されていくのである。

あらゆることがラッキーの種

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高齢や障害を理由に意欲も潜在能力もある人が、働けないことは「国家の損失」なんです。

「チャレンジドを納税者に」という考えを身をもって実感したのは、離婚して親子で住む家が見つからず、やっと麻紀さんを国立の病院に受け入れてもらった時だ。
「彼女の入院費用の報告書が、毎月届けられるんです。当時、月に30万から40万円かかっていて、国からの補助金(ほじょきん)でまかなわれているという。国家公務員並みの額やなぁとびっくりです。それまで税金なんて考えたこともなかったのに」

介護(かいご)を社会化した時に、税がどう使われ、納税者はどういう義務や責任、権利があるのかについて、ナミねぇは初めて思いを巡らした。

「日本の少子高齢化は進むばかり。税金を払う世代が少なくなるのに、医療や介護を必要とする人は増えていく。怖いのは私のような団塊(だんかい)の世代がどっと年金の受給者になること。このまま行ったら国の財政は絶対もちません。そしたら私も戦犯(せんぱん)やんか。国民が払っている税金で娘が生きていくとしたら、ちょっとでも解決に繋(つな)がることを私自身がやっとかな、あかん。そう思いました」

稼ぐ意欲も潜在能力もある人が、高齢や障害を理由に、仕事をする機会を失われているのは、当人はもとより、国家の損失(そんしつ)だ。働くということは、誇りや生きがいになるのと同時に、納税者であり消費者になること。経済の活性化に繋がるのだ。

ナミねぇは全国のチャレンジドに呼びかけた。「障害者という枠(わく)から飛び出して、娘のようなコテコテの障害者を守る側になってよ。誇りを取り戻し、世の中に堂々と物が言えるようになってよ。そういう社会を一緒につくっていこうよ」と。

1991年、プロップ・ステーションを立ち上げる。「プロップ」とは支え合いの意味だ。発足(ほっそく)してすぐ、全国各地の重度の障害を持つ人々1300人にアンケート調査を実施した。その結果、コンピュータを使って仕事をしたいと考えているチャレンジドが大勢いることが判明(はんめい)する。コンピュータを武器に、世の中に打って出る時がやってきたのだ。

ところがちょうどバブルがはじけ、日本経済はどん底状態になってしまった。プロップ支援を約束してくれていたIT企業も倒産するなど、大混乱。ここでナミねぇの「ラッキー!」の一言が発せられる。「みんな一斉に地べたに落ちたということは、スタートラインに一緒につけるということ。景気が回復するまでに、チャレンジドが実力を磨(みが)いておけば、時代に乗れること、間違いなしや」

ナミねぇにとっては、あらゆることがラッキーの種。ゴールは決まったのだから、後は前進あるのみだ。翌年、チャレンジドの就労(しゅうろう)に向けたコンピュータセミナーを開始。94年に管理システムを開発して納品したのが初仕事となる。

"ラッキーウーマン"の驚異(きょうい)的ポジティブ・シンキングと、そのオーラに魅(ひ)かれた人たちの輪は今も拡大中だ。応援団は企業のトップ、政治家、官僚、研究者、主婦、学生など産官学(さんかんがく)を超え、多種多彩(たしゅたさい)。「一番大切なのは、信頼のネットワーク。同じ夢を見られるのなら、あなたのいる場所で、できるやり方で、一緒に目的に向かって行動しましょう」と、ナミねぇは呼びかける。

「日本の現状にどっぷり浸(つ)かって議論しているだけでは、煮詰(につ)まっちゃう」からと、この7月には「チャレンジド・ジャパン・フォーラム(CJF)2006国際会議 in TOKYO」を開催する。働く意欲のある人の誰もが持てる力を発揮し、支え合うユニバーサル社会の実現を目指す。

※プロップ・ステーションのHPはhttp://www.prop.or.jp

(取材・文/境朗子)

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