神戸新聞 2005年10月18日より転載

あなたの街の「安全・安心」どう守る?

竹中ナミさん×中西光子さん×日比野純一さん

出席者
  • 社会福祉法人プロップ・ステーション理事長
    竹中ナミさん
  • NPO法人街づくり支援協会事務局長
    中西光子さん
  • NPO法人たかとりコミュニティセンター専務理事
    日比野純一さん
  • (司会)神戸新聞情報ネットセンター副センター長
    伊良子 序

日本そして世界は、常にどこかで自然災害が甚大な被害をもたらし、多くの被災者が困難に立ち向かっている。阪神・淡路大震災を体験した私たちは、その教訓を発信し続ける使命を持っている。震災から10年たったいま、「安心・安全」な街づくりに向けて、私たちができることは何なのか。震災を契機に被災者の支援活動に取り組んできた社会福祉法人プロップ・ステーション理事長の竹中ナミさん、NPO法人街づくり支援協会事務局長の中西光子さん、NPO法人たかとりコミュニティセンター専務理事の日比野純一さんの3人に、今なすべきことを語ってもらった。

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問われる市民の「自治」――竹中さん
[写真]プロップ・ステーション理事長 竹中 ナミさん
たけなか・なみ 社会福祉法人プロップ・ステーション理事長。重症心身障害児の長女を授かったことから、日々の療育のかたわら、障害児医療・福祉・教育について独学し、「チャレンジド(障害を持つ人たち)」の自立と社会参加を目指して活動を続けている。

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プロップ・ステーションが提唱している障害者の自律移動支援プロジェクトは、今年から神戸市内で実証実験が行われている

市民が支えあるシステムを――中西さん
[写真]街づくり支援協会事務局長 中西 光子さん
なかにし・みつこ NPO法人街づくり支援協会事務局長。震災以降、とくに広域避難者に対象を絞って支援活動を展開してきた。現在は、少子高齢化に対応できる社会のあり方として「生き方、暮らし方、住まい方」にコミュニティーの必要性を感じ活動を行っている。

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情報伝達の手段として有効なパソコンをあらゆる世代に広めるため、街づくり支援協会は日常的に講習会を開いている=大阪市西区

在日外国人の視点 街づくりに――日比野さん
[写真]たかとりコミュニティセンター専務理事 日比野 純一さん
ひびの・じゅんいち NPO法人たかとりコミュニティセンター専務理事。言葉、文化、民族、国境の壁を越えた同じ住民としての街づくりを目指し活動している。世界9つの言葉で放送する多言語コミュニティー放送局「FMわぃわぃ」の社長も務める。

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多言語コミュニティー・メディアとして、すっかり地域に溶け込んでいる「FMわぃわぃ」の放送風景―神戸市長田区

平常時こそ防災意識を

震災からのスタート

―まず、震災当時の状況も含めて、現在の活動に至るまでの経緯をそれぞれ聞かせてください。

日比野 私は震災当時、東京に住んでいました。震災の4日前に会社を辞めたばかりで、震災発生を知って、何か被災地で手伝えることはないかと感じました。長田の避難所にいたベトナム人が日本語を話せず、うつむいている様子がテレビに映し出され、何とかしたいと思いました。南駒栄公園にベトナム人が多くの人が避難していることを新聞で知り、そこへ駆けつけることにしたのが活動の始まりです。

中西 1992年に協会を設け、専門家の人たちを集めて街づくりの勉強を始めました。震災が起こったときには、自分たちにできることをと、建築士をはじめとする専門家を被災地に派遣しました。そして5月、大阪の70代の女性から一本の電話がかかってきました。震災で大阪に避難をしてきたが、もう3、4ヵ月人としゃべっていない、私がここにいることを知ってほしいと言いながら泣きだしました。自力で脱出したものの、何の支援も得られず、情報過疎に置かれている被災者が多くいることを知り、市外県外避難者ネットワークりんりんを立ち上げました。

竹中 91年5月にプロップ・ステーションを設立し、障害者がパソコンを使って自立できるように活動を続けていました。震災の発生時、私は当時大阪にあった事務所で仮眠を取っていて助かりましたが、東灘区の自宅は全焼しました。

しばらく事務所が避難所代わりになりました。通信回線と電気が復旧した瞬間に、パソコン通信で仲間との情報交換が始まりました。障害を持っていてもパソコンを使えば支援活動に参加できると考え、車いすでも使えるおふろ屋さんなどの情報を流しました。また、ある避難所でおしめがないという情報をパソコン上で呼びかけたら、東京の会社から大量の紙おむつが届きました。日本で最初のパソコンボランティアは重度障害者たちによって始められたのです。

米ハリケーンなぜ被害拡大

―米国南部を襲った大型ハリケーン「カトリーナ」は多くの災害弱者を孤立させる結果となりました。あれだけの超大国でさえ、そのような状況を生み出すことに驚かされました。

中西 地震は予告なしに起こるわけですから、身構える時間もありません。なのに、阪神・淡路大震災では昔ながらのコミュニティーが生かされ、多くの人が助かりました。ハリケーンは襲来することがわかっていたのに、なぜあれほどの孤立者が出たのかを考えると、やはり貧富の差に行き着くのだと思います。

アメリカには、日本で考えられないほどの貧富の差が歴然としてあります。生活保護もない状態の貧困層の人たちは、逃げるための道具も情報伝達手段も持たなかったために孤立してしまったのでしょう。

竹中 阪神・淡路大震災では、被災者の多くが家庭で介護されている高齢者でした。そうした高齢者は情報のネットワークを持っていないために孤立でした。情報手段を持っていない人とつながるためには、どうすればいいかということが、私たちにとっての新たなテーマとなりました。

―「カトリーナ」の被害拡大の背景には、黒人に対する差別もあったといわれてますが…。

日比野 震災のとき、在日韓国人が関東大震災の記憶から避難所でもぴりぴりしていたのを思い出します。多くの避難所では日本人と外国人が共生していたのですが、一部の避難所ではベトナム人は出てゆけといわれるなど、小さな差別はあったと聞いています。

自然災害に低い危機感

―日本人は、震災をはじめ大きな自然災害を何度も受けながら、防災に対して意識がまだ低いように思われますが、その要因はどこにあるのでしょうか。

中西 震災後、防災意識を高めるための催しは数多く開かれたのですが、感受性が低いために、情報をしっかりと受け止められなくなっているように思います。

―情報感受性が低いという状況をどう考えますか。

日比野 日本国籍で、体にも不自由はなく、何も苦労してこなかった自分が、在日外国人と活動することによって、自分の中のセンサーが磨かれたなということを実感しています。マイノリティーの人たちは日常的に言葉や制度の壁にぶつかっているわけで、毎日小さな災害に遭っているようなものです。だから非常に感受性が鋭い。10年前は支援するという意識だったが、今は逆にそういう意識を養ってもらっていると感じています。地域、社会の矛盾を察知して、それを解決できるまちづくりができるよう声を出していっています。しかし足もとでは、その思いはわが子にさえなかなか伝わらないものですが。

中西 私は若いころからYMCAのリーダーなども経験しており、ボランティアをすることは当たり前という感覚でした。

自分の知らない世界に身を置くと、センサーの働き方も変わってくるものです。昨年私は脳梗塞(こうそく)を患い、以前のように言葉が出てこなくなりました。ところが、できなくなったことで新しい世界が開け、今まで気づかなかったことに興味が向かうようになりました。

―新しく気づかれたこととは何ですか。

中西 今後ますます小さな政府になっていく過程で、国民は何をすべきかを考えるようになりました。公の財政に制約がある以上、住民や地域でやれることは担っていかなければならないということです。今まであったものがなくなる不満はありますが、お上だけに任せておくのではなく、われわれ市民が当事者として参加し、お互いに支えあうという新たな公共システムを作っていく時代だと思います。市民にもその経営とサービスに対し責任が求められます。そこで現在提案しているのが「ご近所センター」です。小学校区に一つ程度つくって、高齢者や障害者、母子家庭などだけと対象を限定せず、利用できるようにしたいと思っています。希薄になりがちなご近所同士をつなぐ場になることを期待しています。

「民」「官」で情報を共有

被災して学んだこと

―お上に頼ってきた日本社会が今後、どう変わることができるのかが、いま問われているような気がしますね。

竹中 私たちが震災で学んだことは、日本には「自治」がなかったということです。その自治を、どれだけ私たち国民・市民が取り戻すことができるか、考えていかなければなりません。

行政は、障害を持っている子がどの住居に住んでいるといった細かい情報までは持っていないので、行政担当者は当事者組織にそういった情報を聞きに来ました。当事者グループにしか、そういった情報はなかったのです。私たちは日ごろSOSを出す相手は、消防や警察といった、いわゆる官ですが、官だけに頼っていてはいけないのです。

私は重症心身障害の子を授かりました。気の毒と思うかもしれませんが、いまは何も恐くない自分がいます。重度の障害を持っていても、生まれてきてよかったと思うか、思わないかは自分の考え方ひとつ。かわいそうでなくするにはどうすればいいか、考えながら活動してきました。

そう考えると、あの震災で、だれかに助けてほしいとゆだねていたことは間違いだったと気づきました。だれにもいろいろなことが無差別に起きるという覚悟を持たなければなりません。それに対処するには、起きたことに対して自分がどう向き合うかが問われているのです。官だけに頼っていてもいけないし、それをボランティアというあやふやな主体に頼るのでもない。中西さんがおっしゃるように、そこをつなぐところを地域ビジネスとして事業化しないといけないのだと思います。そうすれば、ただ雇われるだけでなく、地域に貢献できる新たな働き方を目指す人も多く出てくるのではないでしょうか。

―人間は逆境に遭遇しないと、感受性が育たないのでしょうか。

中西 体験によって感受性が鍛えられていくことは間違いないと思います。では、経験しないと育たないのかというとそうではない。人がどういう状況にいて、何を困っているんだろうという想像力を働かせることが大切です。今の若い世代はそこが弱くなっている。その原因は親にあります。子どもにさまざまなことに直面させず、見せないようにしているために、無関心になってしまう。感受性を磨く機会がないのです。自ら子どもが育つのを待つ余裕がなくなってしまっているのだと思います。

行政の対応にも同じことが言えます。一時避難をするつもりが帰れなくなってしまった市外県外避難者に対しても、想像力を働かせれば、すぐに対策を打つことができたはずです。

―情報を把握したとしても、その情報に対してどう行動を取ればいいのか、わからなくなっているように思えます。

日比野 震災で驚いたことが、二つあります。一つは、在日ベトナム人がいろいろな壁にぶつかりながらも、住環境を改善していくなど、限られた条件の中で生活を豊かにする知恵や行動力をものすごく持っていたことでした。人間の持っている力はこれほどすごいのかと考えさせられました。

もう一つは、震災時に避難所で多くの高校生が熱心にボランティアに取り組んでいたことです。避難所の運営が混乱していた中で、知恵とイマジネーションで切り開いていこうとする若者の姿を見て、これは捨てたもんじゃないなと感じました。

神戸では、ボランティアがしっかり地域社会の中でメカニズムをつくろうとしています。在日外国人が本来持っている潜在能力を発揮できるよう、足かせをはずしていこうとしているアジアタウンの取り組みについて、もっともっと伝えていかないといけないと感じています。

多様な手段で地域に発信

―先の総選挙で自民党が圧勝しました。国民が小泉首相が唱える改革をどこまで理解して投票できたのか、それが問われているところです。いま私たちが置かれている、激しく変化する社会状況を踏まえ、今後とくにどんなことに力を入れて取り組んでいきたいと考えていますか。

竹中 民の力を取り戻すためには、官の力を借りることもとても重要です。どちらがいい悪いではなく、異なる特質を持ったものであるという理解をし、お互いにどこまでを担うかを考えていくべきだと思います。そういった意味で、行政にもどんどんコミットしていきたいと考えています。

政治家も行政の人も、家に帰れば民の立場で生活しているわけです。そこでどう考えるかなのです。そういう意味では、いろんな立場の人がつながりあうことでとても重要です。自民党が絶対多数を占めた中で何をしていくかを、私たちは見極めなければいけないし、問い続けていかなければなりません。選んだ以上、責任は有権者自身に返ってくるわけです。それを若い人たちに伝えたいと思います。

中西 この年齢になると、一人一人とのお付き合いがとてもいとおしくなってきました。今までは忙しさにかまけてきたようで、もっと丁寧に生きないといけないと痛感しています。

とくに今後力を入れたいのは、子育てに対する支援です。私自身は自分の子どもに対し、理屈だけで子育てをしてきたように思います。抱きしめるような子育てを、若い親たちに体験させてあげたいのです。それはすべての人間関係の基礎だと思うからです。

日比野 市民活動をしているぼくたちも、どれだけ想像力を働かせて、よりよい社会をつくれるか。そんな視点で物事をとらえていかなければなりません。メディアが多様化し、市民メディアが力を持つようになってきています。マイノリティーも発信できる手段を持てるようになったわけで、この日本社会の中で、多様な手段で多様な視点を伝えていくことが大切です。それをどのように仕組みとして位置づけていくかを考えていかなければいけないと思っています。

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