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2004年女性センターフェスティバル-報告書 2004年7月より転載

 

 
 

講演記録

 
 
マイナスをプラスに変える!
 
 

〜すべての人が誇りをもって生きられる社会に〜

 
 

 

竹中ナミの写真講師:竹中ナミ(社会福祉法人 プロップ・ステーション理事長)
重症心身障害児の長女を授かったことから独学で障害児医療・福祉・教育を学ぶ。
1991年「チャレンジド(障害を持つ人)を納税者にできる日本」を合言葉にプロップ・ステーションを設立。近著に『ラッキーウーマン〜マイナスこそプラスの種!』(飛鳥新社)がある。

1.プロップ・ステーションの活動 2.社会復帰したい!寝たきりのスタート
3.納税者になるための3つの秘訣 4.プロップの意味
5.重症心身障害の娘 6.私の幸せは私が決める
7.専門家と素人の領域 8.少数は差別される
9.マイナスを数える文化 10.みんながチャレンジド
11.ネットワークの重要性 12.マイナスをプラスに変える道具
13.30分間のビデオメッセージ 14.ユニバーサル社会に向けて
15.いざ国会へ 16.アメリカから学ぶ
17.時代に応じて文化は変わる 18.スウェーデンから学ぶ
19.誰もが安心して暮らせる社会に  
プロップ・ステーションの活動

 プロップ・ステーションの竹中ナミこと「ナミねえ」と言います。どうぞよろしくお願いいたします。

 プロップ・ステーションはコンピュータとかインターネットとかIT(インフォメーション・テクノロジー)と言われる情報技術を活用しています。とりわけ障害が重くて家族介護を受けている、あるいは家族介護も難しくて施設の中にいる、あるいは進行性の病気や障害で病院のベッドの上にいる方までもが、コンピュータネットワークを使って、社会やまわりの方とコミュニケーションをとっています。ITを使って自分に必要な情報や学びたいことを、自分の意思でゲットして、自分を磨き、自分のできることを世の中に発揮して、仕事としてきちっと収入が得られるようになれば、なんて素晴らしいだろう、ということで13年前からボランタリーに活動を行っています。

 私は、実はコンピュータとか機械が全く苦手な人間です。コンピュータが得意で、技術を教えてあげたら、みんながもっとできるようになるだろうと思って始めたんじゃないんです。はっきり言って好きか嫌いかといわれたら嫌いです。プロップの活動を13年やっていて、いまだに両方の指1本ずつでキーボードを打つことしかできないというのは、仲間の中で私だけ。コンピュータとソフトウエアが進化してきたから、最近ではプロップやプロップ以外のところで勉強された方は、たとえ全く目が見えなくて、聞こえなくて、しゃべれなくて、指がものすごく震えて、知的や情緒に重い障害をもっていても、半年から1年と勉強すればみなさん私を超えるんです。重度の障害にも関わらず、ソフトウエアが使えるようになり、中にはお絵かきソフトを使ってすごいアートを書かれる方もいます。

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社会復帰したい!寝たきりのスタート

 関西学院の高等部でラグビーをやっていたスポーツ青年が私の友達で、プロップの活動を一緒に始めました。ラグビーやアメリカンフットボールというのは結構激しいスポーツです。バーンとぶつかり合ったり押し合ったりします。ですから鎖骨を折るとか、肋骨にひびが入るとかは日常茶飯事ですが、彼は首の骨を折りました。もちろん救急車ですぐに運ばれ入院をし、必死のリハビリをしましたが「残念ながらこれ以上きみの症状が改善されることはないから家へ帰ってください」と医者に言われました。どんな状態かというと、左手の指先がわずかに上下する。そして、首が左右にわずかに動く。自分の意思で動かせるのはこれだけになっていました。つまり、布団から頭を起こそうにも起き上がることもできません。移動するには車椅子に乗らなければなりませんが、車椅子に自分で移ることもできません。排尿も排便も食事も、何から何まで全部介護が必要な全身麻痺の重度障害で帰ってきました。つまり、寝たきりの障害者ということです。ついこの間まで大学に行けば、世界に羽ばたくことのできる優秀なラガーマンになるだろうと嘱望されたスポーツマンで、本人もバリバリやっていたのが、全身麻痺で寝たきりの障害者になって戻ってきたのです。本人も親御さんもショックで一時は失意のどん底にいました。

 ところが彼は、両親にこう言いました。「僕は確かに体が動かなくなったけど、これ以上くよくよしていても仕方がないと思う。僕は考える力が残されているということに気がついた。だから、この考える力を磨いて、いろいろな勉強をして働けるようになって社会復帰したいと思う」。でも考えてください、社会復帰といっても、枕から頭も起こせない。着替えることから食事から下(しも)のことから家族の世話がいるんです。

 でも彼の両親は、彼が勉強して働きたいと言うとすかさず「そうかおまえ働きたいんか、ほんなら長男やねんから家を継げるようになれ」と言ったそうです。

 彼の家の家業は3つありました。わりと郡部の広い敷地の家で、敷地の半分ぐらいで農業をしていて、あと半分のところに植木を植えて、3代続いた植木屋もしていました。そして一番奥の敷地にマンションをいくつか建て、マンション経営もしていました。つまり、農業と植木屋さんとマンション経営の3つの家業です。「大丈夫。この3つの家業のうちのどれかを継いで、必ず自分は仕事をしてみせる。家を継いでやるよ」と彼は言いました。

 マンション経営には、経済や経営者になるための勉強が必要です。当時パソコンはまだまだ一般的ではありませんでしたが、わずかに動く指でワープロを打てたので、このワープロソフトを使って、データベースを作り、入居者を管理をすることができれば、マンション経営ならやっていけると考え「僕はマンション経営者になるために勉強し、努力する」と言いました。現実に彼は、今立派にマンション経営の仕事をしています。

 彼が、勉強するために何を志したというと、まず大学に進学することを考えました。中高一貫校で、高校に行ってたわけですから、試験を受けてある程度の成績を取れば進学できるわけです。大学部に入試を受けたいと彼が申し込みました。ところが大学部は「NO」と言いました。なぜかというと、彼は鉛筆も持てなくて、試験会場に来ることもできません。試験の間も、必ず誰かサポートする人がいるんです。消しゴムが落ちても自分で拾えません。「残念ながら試験を受けていただくのは無理です」と大学は言いました。試験を受けて、成績が悪いから進学をあきらめてくださいというのであれば、来年またがんばろうとか、再来年がんばろうとか意欲もわくけれど、試験そのものが受けられないと言われると、未来への扉が閉ざされたと同じです。彼はすごくショックを受けました。

 何とかして試験だけは受けたいとやり取りをしてる間に「僕はワープロが使えるじゃないか、だから、このワープロを試験会場に持ち込んで、フロッピーで問題をもらえば、きっと受けられる」と彼は気がつきました。大学に提案しましたがまた断られました。前例がないからです。今までそんな道具を持ち込んで試験を受けた人は1人もなく、そういうことを認めた前例もないわけです。でも彼は、必死になって食いつきました。「なんとかお願いします。だめなら来年また挑戦します。とにかく受験のチャンスをください」。彼の真剣さに打たれて、大学は試験を受けることを許可しました。彼は、関西学院大学の大学部にワープロという道具を持ち込んだ最初の1人になったのです。そして彼はみごと合格して、大学生活をラグビーの時の先輩や後輩、もちろん家族の力も借りて、真剣に自分が経営者になるべくいろいろな勉強をしました。経営者になるには大学の勉強だけでは足りないので、コンピュータ技術も身につけたいということで、大学院に進学して理工学部の博士課程を終了し、自宅のマンション経営をはじめました。

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納税者になるための3つの秘訣

 これまで日本では、事故や病気で全身麻痺になり、寝たきりで全身介護の人は、本人も家族も気の毒で大変かわいそうな人たちと思われてきました。ところが彼は、今や立派な経営者で、納税者になっているんです。これはなぜか、3つの条件があったことに気づきました。

 1つめは、本人が働きたいと思ったことです。自分の力を世の中に出していきたい、試したいということです。2つめは、家族や周りの人が「やめとき、無理や」ではなく彼の働きたいという気持ちを応援する側に立って、いろいろな人が協力したことです。3つめは、パソコンのような最新の道具です。

 実は彼が乗っている電動車椅子を見ると、バネみたいなものやいろいろな小道具がついています。しかも、その小道具というのは彼がわずかな意思で前に出そうとするとそれを増幅させるというか、バネの力でぐっと出るようになっています。ご両親が工夫し設計して、友達の鉄工所に頼んで、作ってもらったそうです。肘をぐっと押しだす、湾曲した鉄板のようなものをよく見ると、スコップの先になっていて「さすが植木屋さん」と思いました。彼は体が大きいですから、布団から起こして下(しも)の世話をするのも大変です。高齢になった両親が抱き上げるのは危ないので、どうしているというと、天井にレールを張り、鉄の鎖をぶら下げて、キャンバス地のブランコみたいなものを、彼の体にあてがって吊るすようにしていました。今でこそ老人介護や介護福祉用品などの福祉機器カタログを見て買えるようになりましたが、当時は違いました。天井走行リフターどころか起き上がるベッドもない時代でした。でも彼は、世の中にないものまで工夫して作ってもらい、最新の道具を使うことができました。

 本人の意思と家族の応援と最新の道具、この3つが揃ったら、おそらく彼のような人がこれから世の中にたくさん産まれてくるんじゃないかと思います。今まで寝たきりでかわいそうで気の毒で孤独な障害者と言われていた多くの人は、もしかしたら3つが揃うことで、その人の力を世の中に発揮できるようになるんじゃないかと思ったんです。

 彼が病院に担ぎ込まれて入院している間に、事故や病気や自殺未遂で担ぎ込まれてきた人たちの多 くは、社会復帰したかというとしてないんです。

 入院している間は、みんな夢や希望を語り合うわけです。「少しでも体が動くようになって退院できたらこんなことをしたい、あんなことをしたいと語り合っていたんだけど、退院した後、僕のように仕事に復帰した人はほとんどいないです。僕はそれが悔しくて悲しい。だから、ナミねえ一緒に新しい活動をはじめよう」ということでグループを作ることにしたんです。

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プロップの意味

 どういう名前にしようかと聞くと彼がすかさず「プロップにして」と言いました。プロップは何かと聞くと、彼は胸を張って「僕がラグビーやっていたときのポジションなんだ」。「そら、あんたの気持ちはわかるけど、ラグビーやってたときのポジションというだけでグループの名前にできへんやろ。何か意味を調べてみて、私たちのやろうとしていることにぴったりやったらOK。あかんかったら別の名前にしよう」。調べてみると、プロップは『支柱、つっかえ棒、支えあい』という意味がありびっくりしました。

 今まで日本の福祉やボランティア活動は、障害のある人は支えられる側、障害のない人が支えてあげる側と線が引かれていました。だけど、私たちがやろうと思っている活動は「障害がなくてもできることとできないことがある、障害があってもできることとできないことがある、じゃあできることはお互いに出し合い、できないところは支えあって生きていったらいい」という考え方に切り替えて、みんなで支え合おうというのが今からやろうとしているグループの方向性です。プロップに『支え合い』という意味があったのは、天の啓示かなと思いました。あとのステーションというのは、プロップグループでも良かったんですが、この活動に参加することで、あなたも福祉に関わるポイントを切り替えてみませんかということで、ポイントを切り替える駅になったらどうかと考えて「プロップ・ステーション」というグループ名になったわけです。

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重症心身障害の娘

 そもそもなぜ私が彼のような青年と出会ったかということですが、実は私は子どもが2人おります。上は33歳の息子です。31歳の下の娘は、重症心身という脳に重い障害を持っている状態で授かりました。生後3ヵ月ぐらいで脳障害がわかりました。重症心身障害というのは病名でもなく、障害名でもありません。いろいろな障害が重複している状態を総称して言います。じゃあ私の娘はどういう障害が重なっているかというと、視力は明るいくらいがかろうじてわかるぐらいの全盲です。ものの形は一切わかりません。聴覚は、音は聞こえているようですが、その音の意味はわかりません。ですから私が話しかけているのか、他の家族が話しかけているのか、あるいはテレビでニュースをやっているのか天気予報をやっているのか、一切聞き分けることができません。声はでますが、残念ながら言葉を話すことはできません。

 世界中どの国でも、赤ちゃんは生まれてきたとき「おぎゃー」と泣き、いつのまにかその国の言葉を話すようになるんです。コップが生まれてきたときの脳だとすると、お母さんの声かけや周りの人の声、周りの状況や音、環境がインプットされていきます。特に言葉でいうとインプットされたことがいっぱいになって、コップから水があふれるような状態になったとき言葉になります。つまり先にインプットがあって、アウトプットとしての言葉が発信されたり身についたりします。ところが娘の場合は、このコップの底が抜いている状態、つまり溜まりません。インプットされても蓄積されていかないという状況です。母を母と認識できないのは、重度の痴呆症と似ています。まとまったことが言えず、「あー」とか「うー」とかですから。ただ、根本的に違うのは、高齢者の痴呆というのは、溜まったものが少しずつぽろぽろと抜け落ちていく。結果としたら良く似た状態になるんですが、高齢者の場合はかなり残っている部分がありますから、その部分を刺激したり掘り起こしたり、リハビリするわけです。娘の場合は残念ながら溜まりません。それでも少しずつ少しずつ溜まっていくのがすごいと思います。抱っこすると後ろにふわーっと倒れて、後ろむけに真っ二つになりますが痛くないんです。マシュマロみたいにぐにゃぐにゃです。病院に行くために、彼女を抱っこして、おしめやミルクを入れた袋を持って、駅に向かって走っていると、ふわーっと倒れて後ろ向きにサンドバンクみたいにぶら下がるわけです。起こそうとするけど荷物を持ってるし、駅はそこだし、そのままぶらぶらっとして走ります。すると後ろからくる親子連れに「見てごらん。世の中にはあんな恐ろしいお母さんがいるんだよ」と指差して言われるんです。「そんなこと言われても起こしてよ。でもそのままやったらいかんなぁ」と思ってタクシーに乗ろうと必死で手を上げる。止まってくれたのはいいんだけど「あんたみたいな人を乗せる車じゃないよ」と、運転手さんが怒鳴る。後ろむけに赤ちゃんがぶらぶらしていて痛くないなんて普通信じられないですからね。今だったら虐待とかいってすぐに警察に言われるかもしれません。そんな状態でした。

 

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私の幸せは私が決める

 3ヵ月の検診の時に「あなたのお子さんは、脳に重い障害を持っていますよ」と医者に言われ「どうしよう」と思いました。どんな育児書や教科書を見ても、子どもの育て方については載っているけれど、「あなたの子どもが重い障害を持っていたらこうしてあげなさい」ということを、一行でも書いた本はないわけです。しかも子どもの頃から、近所にも同級生にも、社会にでてからもいなかったし、先に授かったお兄ちゃんも重い障害を持ってない。だから、脳の障害と言われても、何か大変なことだとわかるけれど、どうしたらいいかという知識や情報がないのです。仕方がないのでその子を抱いて、育児の先輩である両親の所へ相談に行きました。「どうやら発達の具合がおかしいと思っていたけれど、医者に重い脳の障害があるって言われた」。言ったとたん父は、私が抱いていた娘を取り上げて、真っ青な鬼みたいな顔になって「わしがな、この孫連れて死んだる」と言うんです。「えーっ、どうやって育てようって相談に来てるんやで」。「いや、わしが連れて死んだる。こういう子を育てるのはおまえがつらい目にあう。おまえが大変な目にあって不幸になる。わしはおまえがかわいいんや。そやからおまえがそんな苦労するの見てられへんからわしが連れて死んだる」って。冗談じゃなく本気なのでびっくりしました。

 実は父は、私がかわいくてかわいくて溺愛するタイプだったんです。私もどちらかというとファザーコンプレックス気味だったんです。

 いくら父が子ども好きといっても、当時は子どものおしめを替えたり、台所でごそごそするお父さんはいなかったんです。男女の役割が分担されていた時代でした。ところが、うちの父は変わっていて、びーって泣くと、すかさずそこら辺にある兵児帯(へこおび)でおんぶして、ねんねこ着て背負って外へ出て行って、大きな声で軍歌を子守歌に社宅の路地を行ったり来たり。当時を知る人に「ほんまに可愛がられてたんやでお父ちゃんに」と言われるような父でした。だから私も父が大好きで、母に焼きもちを焼くぐらいでした。

 その父が、真っ青な顔をして鬼みたいになって「おまえのためにこの孫を連れて死んだる」と言ってるから「これはほんまに死によるな」と思いました。その時に私は、2つのことを決心しました。1つは絶対父と娘を死なせない。死なせないということは、私と娘が生きていくこれからの人生の中で、父が言うようにつらいとか苦しいとか不幸だけではない、もちろんそういうこともあるけど、それだけじゃなく、楽しく元気にやれるということを見せて安心させてやるということです。もう1つは、大好きな父が言うことでも、私が幸せか不幸かということは自分で決める、父に決めて欲しくない、2つのことを決心しました。それとどうやって少しでも彼女に楽しい事をしながら生活できるかということを自分が勉強をしようと思いました。

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専門家と素人の領域

 医者や医療の関係者、いろいろな専門家に会いましたが、口をそろえて言うことは「お母さん、こんな子を産んだのはあなたのせいじゃないからがっかりしちゃだめですよ」という慰めなんです。最初に「こんな子」とくるわけです。「わかりました。慰めてくれるのは嬉しいのですが、私は今日は慰めてほしくて来たわけではなく、どういう風にしたら彼女と楽しく暮らせるか、そういう方法を専門家の先生に教えてもらおうと思ってきたんです」。「いやーがっかりしちゃだめよ、こんな子はね」。「わかりました。それはもういいですから、どうすればいいか教えてください」。というのを繰り返しているうちに、だんだんわかってきました。

 薬とか手術とかいわゆる医療行為で治せる間は患者で、医者のテリトリーにあります。医療行為で障害が残った娘は自分たちのテリトリーの向こう側のことだと言っているのがわかってきました。もちろん30年前と今では医学の知識やレベルも違いますが、何度か繰り返しているうちにわかったんです。「なーんや、専門家っていうのは私たちより限界なくもっと知っている、教えてくれると思っていたのに、専門っていう限界の人なんや。私は素人やねんから、彼女と一緒に楽しく過ごすための育児方法やマニュアルを作ったるやんか」と思いました。この時今まで勉強して来なかったことが初めて悔やまれました。初めて勉強らしいことをしました。医学書という医学書、専門書、大脳の生理学の本などを読みましたが、どれもこれもやはり限界について書いているだけで、私が専門の勉強をしてもだめだということが解ったんです。

 そうしているうちに、ある日はっと気がつきました。これが最高の私にとっての答で、ノウハウになったんですが、娘は見えないのだから、見えない人と付き合って見えないことは何が不便で困るのか、見えなくてもどんな風に生活ができて、どんなことなら楽しいのか教えてもらおう。聞こえなくて話せなかったら、聞こえなくて話せない人と付き合って、どうやってコミュニケーションをとっているのか、何が楽しくて何が困るのかということを教えてもらったらいい。動けないなら、動けない人と付き合って、動けたら何がしたいのか、動くためには、家の中や出ていった町や社会がどうなっていたらいいのかということを一緒に考えたらいい、つまり専門家でなく当事者から教わろうと180度頭の中を切り替えました。

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少数は差別される

 それから、いろいろな障害を持つ方とお付き合いしました。私の娘がありとあらゆる障害を持っていましたから、ありとあらゆる障害の方と付き合うことができました。中でも視覚障害の方との付き合いがたくさんあります。
 ある時、全盲の女性と友だちになりました。その彼女が結婚しました。相手の方も全盲の男性で、同じマッサージの仕事で出会った方と恋愛をして結婚したんです。友だちが集まって結婚パーティーをしようということになり、会費を出し合い、食事や料理の買い出しや受付、私は花嫁の化粧担当と、役割をみんなで分担することになりました。夫婦そろって全盲ですから、集まるお友だちの8割が全盲の仲間で、あとの2割が私らみたいに見えている友達です。
 会場で「今日の彼女きれいでしょ。私がお化粧してあげてん」と言ったり、みんなで食事をしながら和気あいあいと式が進みました。途中で司会者が「これからビデオを上映します。お2人がデートしているところを、実はビデオにとってあったんです。楽しそうにしている2人の様子を見てください」と言い、会場が暗くなってビデオが始まりました。当然食べるのを止めて、膝の上に手をおいて見ているわけです。「いやー2人でああして遊園地に行ってたんやね。ラブラブやん」と言いながら見ました。ビデオが終わり拍手をして、明るくなったので料理の続きを食べようとしたら、料理がなくなっていました。見えている人は、部屋が暗くなってビデオが始まったら、膝に手を置いて見るんですが、見えない人はビデオを見ないで音を聞いて、暗さや明るさと関係なく楽しそうにずっと食べていたんです。普通に食べ続けている人が8割で、膝に置いている人が2割の状態で15分すると料理はなくなります。同じ会費を払っているのにと思わず頭にきて言いました。「見えている人間を差別するのはやめてください」。
 でも、それを言いながら「はっ」と思ったんです。差別は数の多い方が、多い方のできることにあわせて、作っているルールの結果できたもので、もし見えない人が大半だったとしたら、私みたいにパタンという音でものごとを判断できず、触っただけでもののグレードがわからない人間は障害者です。「えーっ! すごいことに気がついてしまった」と思いました。今まで障害を持っている人に対して、できないところを数えるだけの付き合いだったということを知ったわけです。

 

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マイナスを数える文化

 ちょっと皆さんに質問させてもらいますね。
 ご飯を食べたいと思ったときに、苗代作って、もみをまいて、稲を育てて、稲刈りをして脱穀をして精米をした米を食べているという方はおられますか。

 何か言いたいというと、人間というのは、文明・文化・科学技術・流通のしくみが進み、いろいろなものが進めば進むほど、自分が生きていくのに必要な最低限の最も重要なことすら自分1人ではやっていけません。いろいろなものの力を借りています。にもかかわらず、目の前に障害のある人がいた瞬間に、自分に全能感を持ちます。健常者という言葉がありますが、この言葉には全能感があって「あ、この人はここができないんだわ、ここが無理なんだわ、ここがダメなんだわ」とマイナスのところを数えはじめて、何かお手伝いできることはないですかという気持ちになってしまうんですね。

 福祉の予算も補助金がどんどんつくようになりました。例えば、年金除外者の基礎年金というのがあります。学生時代に障害者になり一部無年金という少数の方以外は、障害を持って20歳になると、障害基礎年金がもらえます。1級障害の身体手帳を持っている方で毎月9万円弱もらえます。主婦のパートだったら相当働かないといけない金額ですが、税金からもらえるわけです。障害者に毎月これだけのお金を福祉で差し上げるという国は、世界広しといえども日本しかありません。こういう仕組みを作ってきた国では、作業所や授産所の補助金というのはまず出ます。補助金はマイナスのところを数えてマイナスをうめることに使われて、プラスのところを引き出すことには使われてきませんでした。つまり福祉の受け手という弱者に対して何かを補ってあげるという福祉です。例えば、手話で障害者というのはどうするかというと「ボキッとおる」動作をして「人々」とやります。障害という言葉はマイナスの言葉で、日本は障害を否定する文化になっているんです。

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みんながチャレンジド

 プロップステーションでは、障害者ではなく「challenged(以下チャレンジド)」という言葉を使っています。「チャレンジド」はアメリカの人たちが15年くらい前に生み出した言葉です。アメリカでは障害を持つ人たちのことを、***「handicapped」や「disable person」と言いました。でも、その人のマイナス部分に着目した言葉だということに気づいたんです。例えば「disable person」は可能を否定しているわけです。こういう風に人のマイナスのところだけに着目をした呼び方をするのはやめようじゃないかということで「ザ・チャレンジド」という言葉を15年前に生み出したのです。

 この言葉をアメリカの支援者から教えていただいたのが、あの阪神大震災の直後でした。阪神大震災で、神戸の東灘にある私の実家が全焼しました。それどころか、阪神間で活動を始めた仲間が全員被災者になって、みんなでどうやって助け合って運動していったらいいのかというときに、「challenged」(チャレンジド)という言葉を教わったんです。 「challenger」なら挑戦者ですが「ed」がついてるんです。「チャレンジャーではなくチャレンジドっていったい何」。「ed」がついてる受身体ということは、挑戦という使命や課題、あるいは挑戦するチャンスや資格を与えられた人たちという意味なんだ。そしてチャレンジドは、マイナスのところに着目する文化を変えていこうということで生まれたんだ。決して日本でいう障害者だけを表すのではなく、例えば、震災復興に立ち向かう人をチャレンジドというように幅広く使うことができるのです。

 チャレンジドという言葉には哲学が込められているんですね。全ての人には、生まれながらに自分の課題に向き合うことのできる力が備わっていて、その課題が大きい人にはたくさんの力が与えられている、その人が生きていることに対してエールを送り、人間の持つ可能性を信じるという哲学がこめられていたんです。震災で家も全焼し、仲間もみんな被災者になったところで、本当の勇気というか、自分の中に力が湧いてくるのがわかりました。障害者だけじゃなくみんなチャレンジドで、大きな災害が起こったとき今までだったら、「役所いこ。役所行って何とかしてもらおう」これが普通で「行政どないしてんねん。なんとかせーよ」というのが当たり前。ところがあの震災では、市役所も区役所もつぶれました。官も民も関係なく、みんなただ1人の丸裸の人間になって放り出されたり、うずくまったりしているわけです。救急車も消防車も来ない、来ても水が出ないということが起きたわけです。そういう状況の中で、官も民もなく、いざという時の自分たちの備えを、みんなが自分にできることがなんなのかということを考えていかなければならない、そんな時に力があわせられる地域でないと、私たちでないといけないんだということを知りました。

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ネットワークの重要性

 震災で今日までに約6,400名の方が亡くなっており、その中に障害者が多かったと言われました。ところが、亡くなられた方の6割以上が若い障害者ではなく、ほとんどの方が高齢の家族介護を受けている方たちでした。若い障害者の人たちは、それまでにもいろんなグループを作って活動していました。「行政がせーへんのやったら、自分らでやる」という感じで、いろんな運動を起こし、点ではなくネットワークを作っていたんです。だからどういう風にして逃げればいいのか、どこに誰がいて、そこに仲間が助けに行くというのがありました。ところが、家族介護は、娘や嫁による点の介護で、ネットワークを組むどころではなかったんです。どこの家の何畳間にどのおばあちゃんが寝てるかを近所も行政もつかんでいるという状況ではなかった。これが大きな明暗を分けたひとつでした。

 私たち障害を持つチャレンジドたちのグループでは、インターネットはまだでしたが、活動の最初からコンピュータネットワークを使っていました。パソコン通信でやりとりし、震災後、電気と電話回線が復旧したら、パソコンのスイッチを入れて、「私は生きているよ」。「だれそれさんはどうしているか」

 「安否はわかる」。「どこでお弁当をもらえるの」「車椅子で入れるお風呂の情報はないの」。「もうおしめがないので誰か送ってあげてほしい」とかパソコン通信を通じていろいろな連絡を取り合いました。

 プロップ・ステーションの関係者は、一部怪我された方はいましたが、誰一人亡くなることはありませんでした。連携をとり連絡を取り合ったりコミュニケーションが取れているということがどんなに大事か、しかもそのことにコンピュータという道具が役に立つということがわかったんです。コンピュータという冷たい機械の箱に、電話回線がつながっているそれだけのことですが、自分のことを知っているという関係があることを知ったわけです。だから私も、たくさんのチャレンジドがコンピュータを学ぶことによって仕事ができるようになっただけではなく、道具が人と人が命ぎりぎりのところで支えあったり助けあったり、声を掛け合えることができるものだということを、その時初めて深く深く知りました。

 その後、インターネットの時代がなぜ来たかということですが、震災が起きて神戸はこんな状態だという被災地の様子を神戸外大の先生がインターネットで世界に発信したんです。インターネットというのは、一般の電話回線ではなく特別な専用回線を使い、しかも大学ということもあり、安全に世界中に発信することができました。一般回線は、一度に電話の回数が増えるのでNTTが制限を加えてしまうためほとんどつながらない状況になるんです。もちろん切断されてつながらないところもありますが、専用回線を使うインターネットは情報を世界に発信できたんです。それでなんと震災の4時間後、日本ではまだ情報をつかめていなかったときに、インターネットで情報を受け取った世界では、特にスウェーデンやデンマークでは、もう救援隊を作り救助犬を整えていました。「インターネットってなんやねん。私らが使ってるパソコン通信とどう違うねん。専用で特別な回線でそんなことができるわけ」と知ったとたん、私たちはパソコン通信ではなく、次はインターネットをつなごうと思いました。

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マイナスをプラスに変える道具

 プロップ・ステーションは、日本で初めて福祉系の団体としてパソコン通信を使ったグループですが、日本で初めてインターネットを使ったグループでもあるんです。容量の大きなたくさんの情報をやりとりすることのできる電話網をブロードバンドといいますが、これもまた日本で初めて福祉団体で使っているんです。私たちの活動には、世界中のハイテク産業のコンピュータを作っている会社やソフトウエアを開発している会社が支援や情報を下さっています。マイクロソフト社のビル・ゲイツさんは世界一のお金持ちで資産家ですか、福祉関係者でお会いしたことがあるのは実は私だけです。チャレンジドたちがコンピュータを使って仕事ができるようになることが、新しい社会を作ることにつながるということでプロップ・ステーションの活動を支援して下さっているからです。

 初めてお会いしたのは、ビルさんが日本に来て、橋本総理に表敬訪問された日の晩にパーティがあり、福祉関係者として初めて招かれました。にこやかな顔で分厚いめがねをかけて、当たり前ですが英語でぺらぺら話をしていました。私は中学しか出ていないので英語は話せませんが、専用の通訳の方が私の言うことをリアルタイムに通訳してくれました。私は娘のことや娘を通じて知り合ったたくさんのチャレンジドと、コンピュータを使って仕事ができるように社会活動をしていることや、マイクロソフト社がプロップを支援して下さってありがとうございますという話をして、すごく親しくなりました。その時、彼は純粋なすごい技術者で職人さんなんだということがわかりました。技術の話になると一生懸命になって目がきらきらします。

 彼はド近眼のめがねをはずして言いました。「めがねは僕の車椅子だ。これがなかったら僕は技術者として優れていても、コンピュータの画面が良く見えなくて何もすることができないんです。世の中にはいろいろな意味で僕のめがねと同じようなものを必要とする人がいるんです。コンピュータをその最大のものにしたんです。コンピュータがどこでも誰でもがいつでも使えて、その人の力が世の中に発揮できるような道具にしたんです。だから技術者をやっている、最高の科学技術を持っているからもっとこれを進めていきたい」「もっとお金持ちになるんですね」「いえーい」とか言っていました。このコンピュータという道具は、人が人の力を世の中に出すためにあるんだ、そのためのサポートをする道具なんだ、それを徹底してやりたい。「accessible」というふうに言っていますが、「accessible」が自分の人生の、技術者としての目標なんだと言われました。すごい方だと思いました。

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30分間のビデオメッセージ

 プロップ・ステーションは、毎年チャレンジド・ジャパン・フォーラム国際会議といって、コンピュータを使ってチャレンジドや女性や高齢者など全ての人の力を世の中に発揮するユニバーサルな社会を作ろうということで、毎年1回大きな大会をしています。その大会にビデオメッセージをいただきたいというお願いをビルさんにしていました。ビデオで録画をするための時間を30分私たちのためにいただきました。インタビューをしてビル・ゲイツさんが答えるという30分のビデオを作るんですが、私は英語を話せません。

 実はプロップがやっている活動の目標であるユニバーサル社会を法案にしようということで、議会でユニバーサル社会の形成促進プロジェクトチームができています。座長は衆議院の野田聖子さんで、副座長は参議院の浜四津敏子さんがしています。自民党から6〜7名、公明党から4〜5名の与党のプロジェクトチームの勉強会があるんです。与党チームですから国会に法案提出ができる勉強会です。その勉強会の座長である野田聖子さんがアメリカに留学されたことがあり、英語がぺらぺらなので、彼女にインタビューをお願いしました。そしてビルさんと日本がITを使ってどうやったらユニバーサルな社会を作れるのかという対談をしていただきました。お2人が対談し、私は横に座っています。ビルさんが、特に子どもに対して危険な情報もいっぱいあるのでどうやってセーブしていくかということまで踏み込んで、話してくださり非常に盛り上がりました。このビデオは去年の8月に開いた国際会議で上映させていただきました。そしてその勉強会のみなさんにも来て議論していただきました。

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ユニバーサル社会に向けて

 ここで誤解がないように申し上げたいのですが、私はユニバーサルをテーマにやっていますから、私の活動は政治的には全てを含みます。日本の政党は福祉を弱者に対して何かをしてあげることだと思っているので、どの政党も私たちと同じ課題を抱えています。でも私たちは、弱者に手当てすることではなく、弱者を弱者でなくしていく社会を福祉といってくださいと運動しているんです。そういう社会に変えていくための行動を全ての政党の中で起こしていただきたいのです。法案を提出するという議論をするときには、まず責任政党である与党のみなさんがこれを理解し語り合い議論をし、法案のたたき台を作って国会に提出し、すべての政党の方々がそれを理解して、通していただくというのが私はもっとも望ましい順番だろうと考えています。それでまず与党のみなさんにそういうチームを立ち上げていただきました。

 この活動をやってたくさんのチャレンジドが家族の介護を受けながら自宅で、あるいは施設の中で、あるいは病院のベッドの上でインターネットを使って仕事をして、立派な働きをするような時代になってきました。また私たちが言っているユニバーサル社会に対して、日本の政治の場でも本格的に議論をしようというふうになってきました。驚くことに2月26日に、私が衆議院の予算委員会に公聴会の公述人ということで招かれました。「予算の公聴会ってなんですか。よくテレビの国会中継で予算委員会ってやってますやんか。小泉純一郎君、はいとか言ってるあれですか」「あれです。予算の公聴会って言うのは、いろいろな識者の意見を聞いて、了解をいただかなければ、来年度予算が成立しないんです」と言うんです。「ええ、そんな重要な会なんですか」「そうなんです。そこで日頃から言っておられるユニバーサル社会のことをきちっと話していただきたいんです。来年度予算に対する考えや意見を言ってください」。ジーパンはいて行ってきました、普段の服装じゃないと緊張するでしょ。

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いざ国会へ

 予算委員会に初めて入らせていただきました。連合の方と労働団体を代表する方など私以外にも公述人の方が4人いました。私が最初に話す役で、「一番議長に近いところのイスにまずかけてお待ちください。議長が竹中ナミくんと呼びますので、そうしたら『はい』といって前の4本立っているマイクのところまでお話ください。5人のみなさんから20分ずつお話をいただいた後、各政党からそれぞれの質問をしていただきますからそれに返事をして下さい」。私は知らなかったのですが、他の方たちは関係する政党の方と事前に打ち合わせをして想定問答を持ってきていました。ところが私は2日前に言われて、しかも初めてで、皆さんは準備されているのに私1人準備していませんでしたが、無事大役を果たしたなと思っていたところ、また数日して連絡がありました。

 参議院の調査会というのがあって、国会議員の参議院は6年ですが、予算委員会の調査会で、3年ごとに半分ずつに分かれ議員さんたちが勉強する会があります。3年間1つのテーマで勉強します。その国民の生活と経済に関する調査会という勉強チームで、卒論ではないんですが3年間の取りまとめの議論の会があるんです。そこに参考人を招いて、3年間の勉強のテーマに書かれたことについて意見をもらうというのが3月10日にありました。「一体テーマってなんですか」と聞くと「ユニバーサル社会です」と言われたのです。「参議院の勉強会のテーマがユニバーサルなんですか」。「そうなんです」。「喜んで行かせてもらいます」。そのときは、静岡県の石川知事と千葉で障害者の活動をしている重度の脳性まひの方が招かれました。その重度の車椅子の方は、日頃からご自身が活動している事例の話をしました。実は日本で初めてユニバーサルデザイン室を役所の中に作ったのが静岡県で、ユニバーサルな政策を長年取り組んでいるということで石川知事が話をしました。

 ユニバーサル社会を作るために、私が非常に重要だと思っているのは、海外の事例から学ぶということです。やはり福祉関係者やその仲間、あるいは日本の福祉の人だけで考えているとどうしても話が堂々巡りします。今までこういう考え方、これが常識だということでずっとやってきたわけですから。決して悪意ではなく、福祉の手当てをたくさん増やしていきましょう、気の毒だからということでやってきたことです。しかも福祉の手当てをしてあげた人たちがいつまで経っても弱者のまんまで、弱者から弱者でないと人になれない。これをどうかしようというときに、今までの考え方、今までの価値観の人だけで議論していると無理なんです、しょうがないというので終わってしまうんです。

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アメリカから学ぶ

 例えばアメリカやスウェーデンはどうでしょうか。日本は経済の面でアメリカに追いつき追い越そうとして必死にがんばってきました。アメリカをある意味サクセスの国みたいにして、目標にしてきました。スウェーデンは憧れの福祉国家で、どのようにしているのかというようなことを勉強してみるといいです。実はプロップ・ステーションは、アメリカとスウェーデンのある機関と連携をしています。アメリカで連携している機関はキャップという組織です。ここは何をしているのかというと、国防省やNASAで開発をされた最高の科学技術を使って、最重度の方が、官僚や教師や企業のトップの人などありとあらゆる職業につける人になるように、教育の機会と、その人と企業のフィッティングや社会就労や雇用へ押し出す役割を果たしているのです。国防総省の中にあります。
 アメリカは、ベトナム戦争までは徴兵制、そのあとは志願兵になりましたけれどもあのベトナム戦争のときに、たくさんの若者が傷ついて帰ってきたわけです。若者たちが「自分たちをお金だけで保障してくれるんじゃ困りますよ。自分たちに名誉と誇りを取り戻して下さい。国家のためにこのようになった自分たちをお金の保障だけで済まさないでください」と言ったのです。アメリカは軍が非常に強い力と発言権を持っているから、彼らが発言したことを国家として受け止める必要があったんです。そしてアメリカは、彼らがきちっと元の仕事で社会復帰する、あるいは元の仕事が無理でも新しい仕事に就けるような組織を自分たちで生み出しました。それがNASAです。「兵士を戦場に送るというのは、最高かつ究極のテレワークなんだ」とペンタゴンのキャップのリーダーから聞きました。テレワークは遠隔で働く仕組みのことです。テレコミュニケーションとかITを活用した働き方です。例えば、真っ暗闇の中をものすごいスピードで、轟(ごう)音を発して飛ぶヘリコプターのような道具があります。自分が義務や目的を果たして、ヘリコプターで安全に基地に戻ってくるためには、真っ暗で見えないわけで、轟音の中にいるから聞こえないんです。G(速度の単位)がかかっているから動けるのは指先だけなんです。この状態で任務を果たして帰ってくる技術を使えば、見えず聞こえず、動けない人が社会のトップで働けるようになるという考え方になるんです。そのためにこの技術は活かされるべきだということなんです。全ての国民に誇りを持ってもらうことが国防の一歩だという考え方に基づいて、国防省の中にその機関を作っています。とても驚きました。

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時代に応じて文化は変わる

 アメリカは法律もどんどん変えています。約40年前ケネディーが大統領の時に、プロップがキャッチフレーズにしている「チャレンジドを納税者にできる日本」と「納税者」という言葉を使っているんです。ケネディーが大統領になって最初に議会に提出した調書の社会保障の項目の中で「全ての障害者を納税者にしたい」と書いています。「それが自由主義経済の国家において、最も障害者と呼ばれる人たちの人権を護り、そしてその人たちの尊厳を認めることだ。国家がその意思を持つことが重要なんだ」というのをきっぱり彼は書いているんです。「あなたたちは働くのは無理です。税金を払うのは無理ですよ」ではなくて、「あなたたちも社会の一員として堂々と生きて、働いて、納税できるように、つまりTaxeater(税金をもらう)じゃなくて、Taxpayer(税金を払う)にすることが、国家の責任であり、国民全体の義務である」と書いています。

 アメリカで1960年代、公民権運動など、大きな社会運動が巻き起こりました。最初に取り組んだのは、黒人差別禁止でした。人種差別の禁止です。私の弟は、30年前にアメリカにギター抱えて行き、アーティストになりました。結婚して子どもも生まれて、そのままアーティストをしています。弟がアメリカに渡った30年前は人権差別はひどく、日本人はもちろん「Colored」です。彼が選んだパートナーは、私からみるとどう見ても白人ですが、1/4インディアンの血が入っているだけでColoredです。そしてColoredとそうでない人が通る道、入っていいお店が全部決まっているすごい時代でした。そして、40年前に公民権、黒人差別の運動が巻き起こり、人種差別をなくそうとしてきた結果、法律を整備して変えました。アメリカは差別を禁止することをこう考えます。「全ての人が、人権の違い、男女の違い、障害のあるなし、年齢に関わらず、学ぶ、働く、生活するいろいろな場所で活躍していることが差別をなくすこと」と規定しています。分けて何かをしてあげるのではないという方向で、はじめてTaxpayerにしていけるんです。

 イラク戦争のニュースをみて、「アメリカ人って戦争するのが好きなんかな」と思っている人がいるかもしれません。ブッシュ大統領の右腕、左腕といわれるパウエルさんとラウスさんが黒人というのは偶然ではなく、アメリカが意識をしてやってきたことの結果です。

 黒人差別をなくそうという運動の後に、男女の差別をなくそうという運動が巻き起こりました。このときに非常に象徴的なことがありました。男性は「Mr(ミスター)」、女性は「Miss(ミス)・Mrs(ミセス)」と言っていましたが、「なんで男の人はMrやのに、女の人は名前を名のる時に、結婚しているしていないを言わなあかんわけ、おかしいじゃん」と女たちが怒り出し、「Ms(ミズ)」という言葉をうみだしました。ミスターは大きな「M」に小さな「r」ですね。ミズは大きな「M」に小さな「s」です。さすがにアメリカでも、「Ms(ミズ)」という言葉をうみだしたときに、「Msなんて言葉を使う女はウーマンリブの戦士で、とがったやつらや」と冷たく言われたんですが、それからどんどん時代が変わって「Mr」と「Ms」が当たり前になりました。今アメリカだけでなく、英語圏の国で女性のことを呼び時に「Miss(ミス)・Mrs(ミセス)」をつけたらダサいと言われるので気をつけてください。古い人だといわれます。メールや手紙で英語圏の方と交換するときは、例えば私だったらMs(ミズ)ナミねえという風に言葉を変えています。先程言いましたが、障害者をチャレンジドと言い換えたみたいに、言葉もその時代に応じて変えようというすごい文化です。

 残念ながら日本では、まだ言葉を変えようという文化にはなっていません。私は横文字を使いたいわけではないんですが、言葉から入ることによって文化を変えるということもありかと思っています。例えば、「バリアフリー」も「ノーマライゼーション」も、今使っているこの「ユニバーサル」もそうですが、日本はこういう考え方がなかったんです。つまり言葉というのは考え方や文化や哲学がなかったら生まれてこないんです。「障害者=マイナス」という国には考え方をプラス方向に表す文化は生まれないというのがわかりました。ですから私はバリアフリーやユニバーサルやノーマライゼーションと同じように横文字だけその言葉を使うことによって、日本にその概念を植えつけていく、広げていくことを自分たち自身でしたいと思いました。なんで横文字なのかと言われても、その文化がまだないのですから。いつか適切な日本語になる日が来るともっと嬉しいことだと思います。だから手話の通訳者の皆さんにも「チャレンジド」という言葉を表す時、「ボキッ」じゃない手話を考えだしてほしいとお願いしています。しています。これまで私たちはアメリカから、経済ばかり学んできました。そして今度は戦争のアメリカしか見ていないんです。今からは、ほとんどの人が知らないアメリカの本質の部分を学びましょう。

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スウェーデンから学ぶ

 スウェーデンは高負担・高福祉で有名です。人口が約800万の国だからできるんだとよく言われますが違います。スウェーデンは寒冷地で大変貧しい国でした。約100年前まではお年寄りや障害者を殺していました。つまりTaxpayerではなくてTaxeaterの人を殺していたんです。約100年前にやっと荒地で成育することのできるジャガイモの品種が生まれて、食べていけるようになったという歴史をもつ国です。スウェーデンには最新の高齢者のための街があります。その入口にあるガラスケースには棍棒と馬の尻尾の毛とガラス瓶が飾られています。約100年前に自分たちの祖先が働けなくなった人を棍棒で殴り殺していました。馬の尻尾の毛やガラス瓶を細かく砕いて食事に入れると1ヵ月もしないで人間は死ぬそうです。自分たちの祖先は貧しいからとはいえ自分たちの仲間を殺してきたんです。2度とそんな国に戻ってはいけないと自分たち自身を戒め、忘れないために今も飾っています。すごいことですね。こうして考え出したのが高負担・高福祉です。

 約40年前に「サムハル」という国営の組織が生まれました。全ての障害者を対象に、最も重度障害の人から受け止めて、その人ができる職場、仕事の場を作るという会社です。日本でいう厚生労働省事務次官みたいな方が、30数年前にこの会社を国策の企業として生み出し「サムハル福祉事業団」と呼ばれています。今は28のグループ会社になって、スウェーデン中の企業からいろいろな仕事を請負い、請負企業としてはスウェーデンで一番の売上を上げています。全ての業種の中でも7位です。「サムハル」が創られた時には、かなり高額な税金が投入されました。しかしそこで働く人たちが増え、技術を磨き、そこでできる製品が世の中へ出て行くことにより、今や投入される税金の何倍もの売上がその会社から出ています。しかも3万数千人の社員のうち2万8千人以上がチャレンジドで、最重度の人から採用して、その人たちに何ができるかを考えて仕事を作っていきます。また、ここで留まるのでなくて、一般企業に行きたいと思って技術を身につければどんどん人を送り出していくという働きもしています。

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誰もが安心して暮らせる社会に

 日本に何が欠けているか、日本も貧しい時に姥捨てや間引きが伝説ではなく本当にありました。だけど、そんなことを忘れて、あたかもこの繁栄がずっと続くかのように思っています。30年前、私が娘を授かった時に、障害をもつ子の親が「この子より1日後に私は死にたい」と口癖のように言っていました。それは、子どもを残して安心して死ねないということです。30年経ち、日本はバブルを経験し、GNP世界1位と言われると国になったけれど、やはり障害を持つ子の親は同じことを言っています。私もそうです。これからますます少子高齢化社会が進んでいく時に、私の娘のような、丸抱えと言われるような人たちを社会がみんなで守っていこうという意識をもっているか、あるいはそのための経済的な裏付けがあるのかというと、私はやばいと思っています。

 阪神大震災で両親も無事に生き延びて、元の所に小さな平屋を建てました。そこで父は1年半過ごして、84歳で亡くなりましたが、私がずっと元気でこういう活動をやっているので、とても喜んでくれて「ナミが元気にやってる。あの時死なんでよかった」と言って死にました。親孝行できたかなと思います。じゃあ私が安心して死ねるかというと、残念ながら「NO」です。明日どうなるかわからないような状況が現実に起きています。若い人が減って、団塊の世代がどっと大量に高齢化するんです。

 私はこの頃大学で、若い学生たちに話をする機会があります。厚生労働省の出した数字ですが、後15年、つまり2020年になる前に、2軒の家に必ず1人は介護が必要な人がいる時代がくるんです。どういうことかというと、2軒に1軒は、家族介護のためにローテーションを組まなければならないのです。1軒で片方の家族を支えられるかというと、4〜5人に1人が高齢者で現役リタイヤしています。TaxpayerからTaxeaterに戻っているであろう人たちです。子どもだっているでしょう。そうすると支える側が大きくて、支えられる側が小さい雪だるまはわずか15年で逆転します。私は学生さんに「若いみなさんがこの小さいだんごでんねん、支えてくれますか」と言います。その時、1人の女の子が手をあげて「そんな時代になったらもう私は日本にいたくありません。ナミさん世界って狭いんですよ」と言います。すると、もう1人の男の子が、「そういう時代は、団塊の世代の人たちがどっと年寄りになってできるんでしょ。じゃあ団塊の世代の人たちは、淡路島に柵を作ってその中に押し込めるとかしたらどうでしょうね。だって今の世の中、団塊の世代の人たちが決定権を持っている時代じゃないですか。団塊の世代の人たちがハンコを押しているんでしょ。その人たちが、自分たちの明日のためのことを考えないで若者に押し付ける。そんな人には柵に入ってもらっていいんです」。「あなたは正しい。でも私は入りたくない」。だとしたら、何か大きな発想の転換をしなければだめです。多分それは、たくさんの人ができる力を世の中に発揮して支え合いをするしかないと思っています。今まで一部の5〜10の力を持っている人が支えていたけれど、これからは4の人も4の人も3の人も2の人も1の人も0.5の人も持てる力は出してください。そして無理なところを支え合いましょうという風になってはじめて、万一私がしゃべれなくなっても、動けなくなっても倒れこむベッドやお尻を拭いてくれる人がいる日本であり続けるかもしれないと思います。

 安心して死にたいから自分のわがままとして絶対やり遂げたいと思います。つまり、プロップの活動というのは、別に正義でも善でもありません。障害児の母親であるナミねえが自分のわがままでやっている。それに尽きるんですが、共感してくれる人やナミねえがいうような時代になるかもしれないと危機感を感じてくれる人が増えてきたんです。そして2月26日に衆議院で、3月10日に参議院でナミねえの意見を聞いてみんなで共有しようというような時代になったんだろうと思っています。
 今日は話を聞いて、残念だと思われるか、よかったと思われるか、それぞれみなさん一人ひとりですが、今日の話を少し心と頭の中へ残していただいてまた明日から生きていく上で役に立つ部分があれば嬉しいと思っています。長い時間になりましたけれどもみなさんナミねえの話を聞いてくださってありがとうございました。

 

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