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NEW MEDIA 2004年1月号より転載

     
 
テーマレポートのカット
 
 

福島 智 VS 竹中ナミ―1
コミュニケーション技術が道を拓いた

 
     

東京大学がバリアフリアーに関する取り組みを、昨年度から本格的に始めた。
その中心で活躍するのが、世界初の大学教員になった盲ろう者ともいわれる福島智助教授である。
「障害」を切り口にした新しい学際的研究の場づくりを目指す福島さんに、竹中ナミ・社会福祉法人プロップステーション理事長が迫った対談を、次号と2回に分けてお伝えする。
第1回は盲ろう者・福島さんの歩んだ道とコミュニケーション技術について。

(報告:中和正彦=ジャーナリスト、写真:大川亮夫)


福島智の写真

福島 智

1962年、プロップステーション・竹中ナミ理事長と同じ神戸市生まれ。1992年、東京都立大学大学院博士課程人文科学科教育学専攻修了。同大学人文部助手、金沢大学教育学部助教授などを経て、2001年4月より東京大学先端科学技術研究センター助教授(バリアフリー分野)。
現在、障害者・高齢者のニーズと先端科学技術を相互作用させる新しい学際的研究の取り組み「バリアフリープロジェクト」を推進中。


好きなことをして過ごした
失明期の体験が、後の力に


竹中 私は関西人で、要するに「笑いがないと生きていけない」という性格なんです(笑)。だから、福島さんにお会いしたいと思ったのも、まずはユーモアのセンスを持っておられることを感じたからなんです。それはご両親から受け継がれたものですか。

福島 そうですね。父親はとにかくよくしゃべる人で、身振り手振りを交えて一くさりしゃべる。母親もまたよくしゃべる。まあ、関西のオバちゃんというのは、だいたいよくしゃべりますけど(笑)。

竹中 コテコテやね(笑)。でも、それが聞こえなくなったわけですよね。

福島 その前に、まず9歳で目が見えなくなりました。1年間自宅療養して盲学校に入りました。友達には、そういう時期を親子で泣き暮らしたという人もいました。ところが私の場合、縫いぐるみを集めてきて、ひとりで声色を変えて劇をしたり、たまたまラジオで聞いた落語がおもしろくて熱中したりという具合で、学校に行かないでブラブラしていられる時間を楽しんでいました。もともと、目が悪くなる前から学校の勉強ではない部分で好きなことをしていて、それが後々にすごく力になったように思います。

竹中 聞こえなくなったのは?

福島 18歳です。9歳で目、18歳で耳と、9の倍数で来たので、27歳になったら何が起こるのかと思っていたら、腹が出てきました。36歳になったら、髪が上がってきました。いまは、45歳になったらどうなることかと、心配しているところです。

竹中 (爆笑)

 


指点字を考案した母には
いまも頭が上がらない


竹中 いま、私の話は指点字通訳の方を介して福島さんに伝えられているわけですけど、この指点字という方法はお母様が考案されたそうですね。どんなことをきっかけにして考案されたんですか。

福島 聞こえなくなってしばらくの間は、母が紙に点字を打って伝えていました。最初は点筆で打っていましたが、その後、より速く打てる点字タイプライターを使うようになりました。でも、これは重いので持ち歩くには不便ですし、タイピングするときに大きな音が出るので、病院の待合室などでは使えません。

 何か良い方法はないかと親子で悩んでいたあるとき、私がある用事のことで母に文句を言いました。すると、母がとっさに私の指に点字タイプライターの指使いで「さとし」と、私の名前を打ってきました。それがわかったんです。

竹中 それが指点字の発見?

福島 そうなんです。母が相手なので、最初はそんなにすごい発見とは思わなくて、「絶対にもっといい方法を考えてやるわい」と思っていました。でも、今でもこれ以上の方法は見つかっていないので、この点では母に頭が上がりません。

竹中 いま、指点字でお話を聞く方はどのくらいいるんですか。

福島 私が理事をしている全国の盲ろう者協会が把握している盲ろう者の数は、全国で700名弱です。その中で指点字を使っているのは1〜2割、数十人から百数十人ぐらいだと思います。他には、盲ろう者にこちらの手を触ってもらいながら手話の動きを伝える触手話、手のひらに指で文字を書いて伝える手書き文字という手段があります。しかし、手書き点字や触手話は、周りに点字や手話を知っている人がいなければ利用できません。その点、手書き文字は、普通の人にもすぐ使える方法なのでよく使われますが、普通の会話のスピードには追いつきません。

 


電子メールで実現した
コミュニケーションの自立


竹中 点字によるコミュニケーションは、点字の読み書きができる人の間でしか成り立ちませんでした。しかし、ITが登場して、墨字の点字変換やその逆の変換がソフトウェアによってできるようになりました。指点字も、ITによって同じように便利になると思いますか。

福島 結論から言うと、もし指点字の通訳者が要らない時代が来るとしたら、それは人間と同じ能力を持ったアンドロイドを作れるようになった時代だと思います。当分そんな時代は来ないでしょう。

福島さんと指点字通訳の方の写真
指点字通訳の写真福島さんのお母さんによって考案された指点字通訳を介して話を聞く、福島さん

 特定の人のクリアな音質の発言を点字に変換して出力することならば、今の音声認識技術でもかなりできるようになっています。だから、たとえば電話の相手の話を手元で自動的に点訳する装置などは、技術的にかなり実現性が高くなっていると思います。

 しかし、人間は相手が自分と1対1でゆっくりはっきり話してくれる状況だけを生きているわけではありません。大勢の人が話すとき、きちんと区別して伝えてくれるのか。また、地震などで周りの環境がいろいろ変わったとき、それをどう言葉で伝えてくれるのか。そういうことを考えると、どんなにITが進歩しても、当分の間、人の通訳が要らなくなることはないと思います。

竹中 すべてを機械に置き換えるのは無理ということですね。

福島 はい。もちろん、すべて人間がやればいいというわけではありませんけど。

 私の場合、以前は一人では電話ができないし、ファックスも読めないので、離れた人とコミュニケーションするには通訳者が必要でした。だから、独り暮らしをしていたときは、留守番電話にメッセージを入れてもらって、通訳者が来たときにまとめて伝えてもらい、返事をしていました。

 結婚してからは、仕事から帰って疲れているカミさんをこき使っていました。盲ろう者の福祉制度を作るための書類を東京都に送るときも、カミさんをつかまえて「君がこれを送ってくれないと、東京都、さらには全国の盲ろう者が迷惑するんだ。それでもいいのか」と(笑)。

竹中 脅迫やね(笑)。

福島 ひどいことをしたと思います。でも、今は全部メールでできてしまう。

 ただ、今度は24時間一人でできてしまうので、そのために睡眠時間が減ったり肩が凝ったりで、果たしてITが進歩して良かったのかどうか、わからなくなることもありますが(笑)。

竹中 奥様に頼んでいたときの方が楽だった?(笑)

福島 たぶん、カミさんはITのおかげで圧倒的に楽になったと思います。

 


ITのない時代、とにかく
人に会って情報を集めた


竹中 いまはITを活用して大学の先生をなさっていますが、学生さんだったころは、どうされていたんですか。

福島 私が大学に入ったのは1983年ですが、入学しても、教科書も参考文献も点訳本がほとんどない状態でした。見えないだけなら、友だちに本を読んでカセットテープに録音してもらうという方法もありましたが、それも使えません。

 当時、まだ私が使えるパソコンはありません。点訳も手作業だったので、目が見えない学生の間で点訳グループの取り合いになる状態でした。私は録音図書も使えないという条件があったので、比較的どこでも優先してくれましたが、それでも普通の学生が読む本の量に比べたら、圧倒的に少ない数しか読めませんでした。

 ただ、ボランティアの方々が一生懸命に点訳してくださったことを思うと、「サボるわけにいかない」という気持ちになって、深く読んだと思います。大学の教官も、「数読めばいいというものではない。じっくりと深く読むことも大切だ」と言ってくれました。「大事なのは、どんな本を選ぶかだ」とも言われました。

竹中 選ぶにはどんな本があるかという情報が必要ですけど、その面でも苦労されたのではありませんか。

福島 そうですね。目が見える人は乱読する中で良い本に出会うことがあると思いますけど、私の場合はそんな贅沢は許されません。教官でも先輩でも、とにかく会えば情報を集めました。そして、複数の人から読んで良かった本として名前を挙がったものを選んで、点訳してもらいました。

 


大学教員への道は
受験事情から始まった

竹中ナミ
社会福祉法人プロップステーション理事長


竹中
 大学の先生になろうと思われたのは、どういう理由からですか。

福島 大学に入って教育学を専攻したんですけど、積極的に教員になりたくて選んだのではなくて、「他のところよりも受け入れられやすいのではないか」と考えてのことでした。
 実は、大学に入るときもそうでした。私は日本で初めて大学に入った盲ろう者なので、受験当時は、盲ろう者の受け入れ体制などどこの大学にもありませんでした。「どこだったら受験させてくれるか」が大問題で、「何を勉強したいか。将来何になりたいか」という明確なものはなかったんです。

 聞こえたときは何となく外国語がやりたいと思っていたんですけど、18歳で聞こえなくなって、外国語をやるのは難しくなりました。「じゃあ他に何を」と考えても、すぐに見つかりませんでした。

 だから、「受け入れてくれるところなら」という非常に受け身な気持ちで受験して、それで入ってしまったんです。

竹中 その後、かなり暗中模索をされた末の選択だった?

福島 そうですね。1〜2年生のときは、何かをやったらいいのか全然わかりませんでした。
今日にいたる方向性を見つけたのは、2年生のときに偶然に同じ盲ろうの障害を持つ少年と出会ったのがきっかけでした。

 当時、彼は小学校1年生で、先生と2人で単語レベルの勉強をしていました。その姿に接して、「彼とならコミュニケーションできるかもしれない。したいな」と、何かひらめくようなものを感じながら思いました。「少しは彼の役に立てるかも知れない」と思って一緒に勉強を始めて、その付き合いがずっと続いて、そこからいろいろな意味で広がりが生まれて、結果的には「その少年に助けられて今の私がいる」という感じです。彼は現在ではもう26歳になっています。(次号へ続く)

 日本の多くの大学は、障害を持つ学生の受け入れに関して、いまだに福島さんが入学した20年前とあまり変わらない状況にある。福島さんを起用した東京大学を初めとするいくつかの先進的な大学で、今ようやく本格的な取り組みが始まったところ。対談はここから先、福島さんが東大で推進するバリアフリープロジェクトの話題や「この社会をどう変えて行ったらいいのか」という議論に発展し、熱を帯びていった。次号に乞ご期待。

 



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