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福祉ジャーナル 2003年5月より転載

     
 
障害者(児)をもつ親の取り組み
 
 
ナミねぇとプロップ・ステーションの挑戦
 
 
記者 東 潔
 

写真集「チャレンジド」より
写真集「チャレンジド」より

竹中ナミ写真
社会福祉法人プロップ・ステーション
理事長 竹中ナミ氏

 「チャレンジド」。福祉に携わる人間であれば、一度は耳にした言葉ではないだろうか。「神から挑戦という使命やチャンスを与えられた人」という意味で、障害をもつ人を表す。竹中ナミさんは、IT(情報技術)をチャレンジドの就労支援に取り組んでいる。「チャレンジドを納税者にできる日本」にする彼女の主張は、重度の心身障害をもつ長女を授かって30年余に及ぶ福祉活動の体験が凝縮したもので、これまでの福祉観を根本から覆すパワーを秘めている。



 「ナミねぇ!」。チャレンジドたちは親しみを込めて竹中さんをこう呼ぶ。姉御肌。笑顔を絶やさず、多くのチャレンジドに働く喜びと厳しさを伝え、同時に、ギネス級と自認する口と度胸で、大臣、知事、官僚といったお歴々に日本の福祉政策転換の必要性をブッてきた。
 「マイナス数えて埋め合わせする福祉から、プラスを全部発揮できる社会の仕組みに、変えましょう」
 竹中さんが理事長を務める社会福祉法人「プロップ・ステーション」(略称プロップ)は、チャレンジドを対象にしたコンピューター・セミナーを12年間継続してきた。すでに多くのチャレンジドが、家族の介護を受けながら在宅で、あるいは施設や病院のベッドの上で、プロとして活躍している。
 「仕事が見つかると、みんなの目の輝きや表情ががらっと変わるんです。自分を認めてもらって受け取ったおカネの重みは、障害者年金とは全く違います」
 もっとも、一人前の仕事人を目指すので、訓練の厳しさはもっぱらの評判。生半可な気分で来る人はお断りしているが、それでも不自由な身体を会場を運んで必死に学ぶ人がひきもきらない。福井県から家族の車で4時間かけて1年半通い続け、Webデザイナーとして在宅ワークを始めた青年もいる。
講習会風景写真講習会風景講習会風景
講習会風景
 カリキュラムはグラフィックとビジネスソフトを学ぶコースに分かれ、いずれもプロとしての知識や技術を習得するための実践的な内容となっている。卒業して仕事ができる資質が身につくと、企業や自治体から受けた仕事をプロップがチャレンジドの技術や状況に応じてコーディネートする。
 セミナー参加者は1,000人を超え、実際に在宅で仕事をしているチャレンジドも100人を突破した。ITによる障害者の自立、就労支援のモデルケースとして今や全国から注目されており、セミナー会場のある神戸・六甲アイランドにあるプロップのオフィスには見学者や取材も増える一方だ。
 「人間って熱い想いをもって取り組んだ時に、共感し、応援してくれる人が現れるんやなあ、としみじみ思います」とナミねぇは言う。


30年前のショック

ナミねぇ親子写真
ナミねぇ親子
/写真集「チャレンジド」より
 プロップを設立するきっかけは、竹中さんが30年前に重度の心身障害をもつ子供の母親になったことだった。2人目の子で「麻紀(まき)」と名付けた女の子は、生後3ヵ月の検診で「脳に障害がある」と診断された。検査漬けの日々が始まり、戸惑うばかりの若い母親に実父が叫んだ。
 「わしがこの子を連れて死んだる! それがわしがお前にしてやれる唯一のことや」
 娘に苦労させたくはない、忍びない…。当時、障害をもって生まれるとはそういうことだったのだ。父の気持ちを思うと、竹中さんにとってその言葉は、娘が障害をもっているという事実よりもっとショックだった。だが、父にそれをさせてはならない、このままではいけない。だから「しゃがんでる暇なんかあらへん」と前へ踏み出した。
 娘は2歳、3歳と成長しても、親に甘えることをしなかった。母が誰かもどうやらわかってはいないようだ。けれども、時折見せる笑顔はかわいい。口笛を吹きつつおしめを替える日々。やがて、竹中さんは「何も表現しない娘に私がしてやれること」を学ぼうと、障害者運動や施設でのボランティアを始めるようになる。
 目が見えない人、しゃべることのできない人の気持ちがどんなものなのか、一緒に時間を重ねるうちにだんだんわかってきた。彼らが感じていること、何をしてほしいのかを察することができるようになったという。それと同時に、既存の福祉観に疑問を抱くようになった。
 「障害をもつ方々には、実はいろんな可能性を持っているにもかかわらず、今の日本の福祉のシステムの中では『気の毒な人』『何かしてあげなければいけない人』という一方的な位置づけをされています。だから、隔離して保護をする。でも、それはちょっと違うんやないかと思ったわけです」
 確かに、自分の娘のように保護がなければ生きていけない人もいる。能力も意欲も知力も備えた人もいるのに、これまですべてが「障害者」という言葉でひとくくりにされてきた。だが本当は、保護の必要な人には手厚い配慮を、働きたい人には「平等なチャンス」と「選択の自由」を与えるのが健全な社会なのではないか。
講習会風景写真
講習会風景
 こうして障害者への就労支援が、竹中さんの胸の内で大きな目標として芽生えきた時に出会ったのが、「チャレンジド」という言葉だった。これは「ハンディキャップ」や「ディセイブルパーソン」に代わる新しい米語で、アメリカ在住のプロップの支援者から教えてもらった。
 この言葉のもつ、障害がある人の「マイナス面」だけを見るのではなく、「使命やチャンスを与えられた人」とする考え方に感銘を受け、以後、さかんに使うようになった。
 言葉のルーツは、ジョン・F・ケネディが1962年2月1日に行った演説である。大統領に就任した彼はこの時、最初の教書で「障害をもつ人を納税者に!」と格調高く語ったのである。
 「自由主義経済国の『誇り』は、タックスペイヤーとして発言することから始まる。だからこそ、『チャレンジドを納税者に』というのです。私はこれやと思いました」
 「チャレンジド」という言葉を、そしてその考え方を「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」と同じように日本でも定着させたい、と竹中さんは願う。


武器はパソコン

ナミねぇ親子写真
写真集「チャレンジド」より
 もう一つ、ボランティア活動を通じてわかったことがある。障害をもつ人たちの潜在能力のすごさだ。感受性や感性の強さは健常者とは比べものにならないほどで、ただそれを表現するための手段がないだけ。彼らにその能力を社会で存分に発揮させてあげるにはどうしたらいいのか。思考する日々が続いた。
 そこで、全国の重度障害者約1,300人にアンケートを取ることにした。「仕事があれば働きたいですか」「その時役に立つ道具は何だと思いますか?」。すると、回答の8割が「働きたい」「武器はコンピューター」という結果だった。しかし、一方で「勉強する場所がない」「仕事ができるレベルに達したが、評価してくれる機関がない」といった不満も抱えていた。
 「私はもともと性格が能天気なんで、この結果を見て、『なんや、たった4つやんか』と思ったんです。つまり、勉強する場所をつくって、プロの先生を連れてきて、プロになれるように勉強してもらって、営業に出て仕事を取ってきて、家でやってもらったらいいやんか、と」
 ちょうどパソコンが普及し始めたころで、竹中さんは彼らを社会につなぐための場をつくり出そうと決心した。これがプロップ誕生のきっかけだ。1991年に「プロップ・ステーション」準備会を設立。竹中さんはその翌年に離婚した。夫は娘の障害を重荷にし続けていたのだ。
 ほどなく、兵庫県小野市にある国立療養所青野原病院への娘の入院が決まる。竹中さんはエンジン全開で活動を開始した。とはいえ、道のりは平坦ではなかった。まず、「チャレンジドを納税者にできる日本」というスローガンからして白い目で見られた。
 「障害者を働かせて税金を取るなんて!」
 当時のチャレンジドたちの反応も鈍かった。「コンピューターを使って仕事ができるようになろう」と呼びかけたものの、大半が「そんなこと、できるかい」という反応。それでも「年金をもらっているだけでなく、仕事をして社会に評価されたい」と願うチャレンジドが5人、10人と集まって講座はスタートした。
 といっても、当時のパソコンは1台約100万円と高額。竹中さんは、IT企業に「あなたの会社の製品を使う優秀な技術者を育てますから、先行投資してください」と訴え、その情熱に圧倒された企業が支援を申し出た。
 時代の追い風も味方した。コンピューターの目ざましい発達とインターネットの普及である。
 「パソコン通信が世の中に登場した時、これはすごい道具やなと思いました。障害がある人、外出困難な人たちが自宅に居ながらにして対等に意見交換ができる。コミュニケーションのバリアフリーです。これを利用して社会につながったり、仕事ができるんやないかって」


プロップは“実験プラント”

講習会風景写真
谷井亨さん(左)は、三重県でパソコンを教えるNPOを運営しながらソフト開発会社を経営している/写真集「チャレンジド」より
 新しい道具立てで新しい福祉の可能性を探るプロップの挑戦は、やがてマスコミを通じて広く知られるようになり、賛同者が増えていった。現在では、びっくりするような産・官・学・民各界の著名人がプロップの支援者として大勢名を連ねている。
 プロップの存在を知ってもらううえで、竹中さんのキャラクターも大きな武器となったろう。自らを“つなぎのメリケン粉”と言う明るい関西のノリで、だれとでもすぐ友達になる。大企業の社長も、霞が関の役人も、まず友達になって、その人から信頼できる人を紹介してもらう、というかたちで“友達の輪”が広がっていった。
 1998年8月、社会福祉法人プロップ・ステーションとして、厚生大臣より認可を取得。事業はあえて第二種社会福祉事業1本に絞り、極めてNPO(民間非営利団体)法人的要素の強いものを目指した。
 「プロップを日本の福祉政策転換の原動力にしたい!」そんな想いで先鞭をつけた「実験プラント」は、昨年から三重県、熊本県でも新事業としてスタート。行政サイドやボランティア団体も多数協力する新しい就労システム構築へと広がりを見せつつある。「プロップ」のバックボーンとして、毎年地方自治体と共同で「チャレンジド・ジャパン・フォーラム」を開催し、地道にプロップの考え方を訴え続けてきたことで、共感してくれる自治体が徐々に増えてきているのだ。
 「眠っている能力を活かして仕事を持ち、積極的に社会参加していこう、働いて納税者になろう」
 彼女の提言からスタートした活動が今、少しずつ日本を変えようとしている。厚生労働省や内閣府の各種委員、財務省の財政制度審議会専門委員など肩書も増えた。政府の会合にも度々呼ばれるが、「仕組みや考え方を本当に変えるには10年かかる」という。


「保護」から「自立支援」へ

ナミねぇ親子写真
グラフィック・アーティストの吉田幾俊さん(右)。初めての作品が売れた時「お金って、こんなに公平なもんやったんやな」と感じたという/写真集「チャレンジド」より
 国立療養所青野原病院。竹中さんは毎月一度、ここを訪れる。会議や講演に全国を飛び回る彼女が“母ちゃん”に戻るひと時でもある。まもなく30歳になるマキタン(麻紀さん)が笑う。
 「右肩上がりの経済成長も終わって、少子高齢社会は急速に進むし、福祉は破たんするのではないかという不安が募るばかり。娘のように税金を食う人間は、そのうち、社会に存在してもらっては困るといわれかねない。だから今、私たちが手を打たないといけないんです」
 福祉の活動に入って30年。障害をもつ子供とその親を取り巻く環境はずいぶんと変わってきたが、それでもまだ、親が「この子には私より1日だけ先に死んでほしい」と訴える姿を目にする。当事者が直面する苦しみは今も変わっていないのだ。
 どう考えてもこれはおかしい。子供に障害があってもなくても、やっぱり年の順に親から安心して死ねる、そういう社会にしたいと竹中さんは言う。そのためにも、働くことのできるチャレンジドがどんどん仕事を持ち、納税するようにしていかないと…といつも原点に立ち返るのだ。
 「ケアの必要な時には適切なケアが、働く意欲のある時には就労のチャンスが得られる、という柔軟な社会システムを生み出すことこそが、日本人すべてにとっての課題ではないかと思います。年をとったら、いつかはみんなチャレンジドなんやから」
 確かに、障害者ではなくても、女性や高齢者など、働くということに対してハンディをもつ人はたくさんいる。だからプロップでは、チャレンジドだけでなく、一般の人を対象にしたパソコン・セミナーを開催している。一人でも多くの人たちが、自分の身の丈に合った働き方で社会を支えていくようになるのが、竹中さんの目標である。
 「私が社会に役立っているとしたら、私を育てた麻紀の存在意義もある」
 障害者福祉を「保護」から「自立支援」へ。大転換させるナミねぇの挑戦はこれからも続く。



■ DATA
社会福祉法人 プロップ・ステーション
所在地:兵庫県神戸市東灘区向洋町中6-9
    神戸ファッションマート6E-13
TEL:078(845)2263
FAX:078(845)2918
URL:http://www.prop.or.jp/
E-mail:prop@prop.or.jp
竹中さん母娘をはじめ、プロップで訓練したり、自分で働き自信に満ちて生きる「ナミねぇとプロップな仲間たち」の表情を集めた写真集「チャレンジド」
撮影:牧田 清
吉本音楽出版
定価:本体1,905円(税別)


 

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