NEW MEDIA 2002年5月号 (2002年4月1日発売) より転載

【The Challenged とメディアサポート】(53)

「チャレンジドを納税者に」が政治の舞台に

〜女性議員プロジェクト発足〜

選択的夫婦別姓制度など女性に関連の深い政策課題に取り組む女性議員政策提言協議会(女提協)が2月、新たに「ユニバーサル社会の形成促進プロジェクトチーム(PT)」を発足させた。目指す「ユニバーサル社会」とは、チャレンジドを含めたすべての人が持てる能力を発揮できる社会のこと。

座長は野田聖子衆議院議員で、このPTの発足には、先月号で同議員と鼎談を行った社会福祉法人プロップステーション理事長の竹中ナミさんやNPO日本バリアフリー協会代表の貝谷嘉洋さんも関わっている。PT発足の経緯と関係者の思いを追った。

(報告:中和正彦、写真:村川 勉)

 
PT発足式の基調講演で熱弁をふるう竹中ナミ理事長・プロップステーション


PT発足式でADAと米国における障害者の現状をプレゼンする貝谷嘉洋代表・NPO日本バリアフリー協会

有能なチャレンジドが働けないのは国の悲劇


野田聖子衆議院議員の秘書として働く森一毅さん

「これまで障害者は保護の対象でした。でも、これからは、保護が必要な人には当然保護が認められるけれども、『自分も納税者になりたい』という意欲のある人には、その道が開かれるようにしたい。そうできるよう、われわれ立法府・行政府が力を合わせて、その道づくりに取り組んでいきたい」

野田座長は、PT発足の趣旨をそう語った。「納税者になりたい」は、当たり障りのない言い方をすれば「働きたい」ということ。そこにあえて「納税者」という表現を使ったのは、プロップ・竹中理事長の「チャレンジドを納税者にできる日本」という主張(後述)に賛同してのことだ。しかし、野田さんには、この主張に出会う前から、チャレンジドの問題について考えてきた経緯がある。

野田さんは1991年、脳性麻痺で四肢に障害がある森一毅さんを秘書として採用し、以来、後援会の名簿管理を任せてきた。

1998年には、修士論文を書くための研修先を求めていた貝谷さん(筋ジストロフィーで四肢に障害)を受け入れ、その後の彼の活動も応援してきた。

野田さんは、この2人を通して、有能なチャレンジドがその能力や意欲にふさわしい仕事に就けない現状に接し、これは「国の悲劇」と思うようになった。

障害者の雇用機会均等 日本ではまだ啓発段階


与党女性議員政策提言協議会で座長を務める野田聖子衆議院議員(左)と、PTを一緒に立ち上げた浜四津敏子参議院議員(右)

野田さんとともにPTを立ち上げた浜四津敏子参議院議員は、PT発足への思いをこう語った。

「大きな方向性としては、日本社会を本当の意味での共生社会にしていきたい。『障害者と健常者がともに』というだけではなく、女性も高齢者も含めて、あらゆる人が自分の能力を開発できる、その能力を輝かせることができる社会を目指したい。そういう形で日本社会の質を高めていきたいというのが大きな目標です」

浜四津さんは、人権派弁護士として女性や子どもの権利のために活動してきた。そうした経歴から、障害を持つ人の権利にも関心を持ち、早くから米国のADA(障害を持つ米国人法)に注目してきた。

ADAは1990年に施行された法律で、障害を持つ人への差別を包括的に禁じている。損害賠償や権利回復などの罰則規定も設けられている。この中で、たとえば雇用においては、雇用主は求人や雇用後の待遇で障害理由とした差別をしてはならず、障害を持つ者の就労に適切な配慮を行わなければならないとしている。

つまり、米国では現大統領の父親のブッシュ大統領時代、すでに男女の雇用機会均等は当たり前で、新たに健常者と障害者の雇用機会均等が義務化されたのだ。

浜四津さんは、「日本ではADAといってもまだ知られていないので、まずは意識の啓発をしていこうと思っている」と語っている。

ケネディの教書から30年 日本も変わるか

野田さんや浜四津さんは、それぞれ日本の障害者政策に問題意識を抱いてきた。そんな女性議員たちを今回のPT発足へと動かす大きなインパクトになったのが、プロップ・竹中さんの「チャレンジドを納税者にできる日本」という主張だった。その主張の骨子はこうだ。

何もできないほど障害の重い人は、障害を持つ人々の中でも少数派。多くは、持てる能力を生かして働きたいと望んでいる。就労は自立と納税につながり、社会の担い手としての発言力につながる。

しかし、日本の政策は障害を持つ人が社会の担い手になる道を開かず、保護の対象にしてきた。それは意欲も能力のある人の誇りも奪うもので、本当の福祉ではない。しかも、社会の担い手が減って保護を必要とする人が増える少子高齢社会を考えれば、そのような福祉を今後とも維持できるとは考えにくい。このままでは、本当に保護を必要とする人すら守られない社会になってしまいかねない。

そんな時にITが登場してきた。ITは障害による移動やコミュニケーションの障壁を取り払い、障害を持つ人にかつてない就労の可能性を広げている。いまこそ、その可能性を現実のものとするために、古い発想の諸制度を抜本的に改革する必要がある――。

竹中さんは、PTの発足式に招かれて行なった基調講演で改めて、その主張を語った。その中で、「チャレンジドを納税者にできる日本」という主張のルーツにも触れた。

「ケネディ大統領が、1961年2月1日に議会に出した教書の中で、『私はすべてのハンディキャッパーを納税者にしたい。それが自由主義経済の中で彼らを最も幸せにするのだ』ということをキッパリおっしゃっている。それを、私はプロップを始める前に知りました」

ケネディの教書から30年。日本では、いまも「障害者を働かせて税金を取るなんて、とんでもない」という意識が根強く存在する。だが、そんな中でも徐々に竹中さんの主張への賛同が草の根レベルから広がり、ついに国政の場でも「チャレンジドを納税者に」が語られるようになった。今回のPTの発足は、そういう変化を意味している。

もっと政治の現場にチャレンジドを


NPO日本バリアフリー協会の貝谷嘉洋代表(左)は、野田聖子衆議院議員の秘書としても働いている。社会福祉法人プロップ・ステーションの竹中ナミ理事長(右)と議員秘書室で

今回のPTの発足では、座長の野田さんの活動背景として2人のチャレンジドの話が出てきた。前述の森さんと貝谷さんだ。

野田さんは森さんとの出会いについて、こんなエピソードを語っている。

「実は、私をパソコンの世界に導いたのは彼のグループなんです。グループの一人は障害が重くて、私には何を言っているのか全然聞き取れませんでした。ところが、(パソコン通信の)チャットで話すと、普通の男の子なの。それで『これはすごい道具だ。偏見や差別をなくせるな』って感動して」

その後、森さんは障害者授産所でパソコンを使った印刷関係の仕事に就いたが、やがて野田さんに誘われて秘書になった。森さんはいま、こう述懐する。

「授産所では思うように仕事をさせてもらえず、月給も7,000〜8,000円でした。代議士には、報酬も含めて、一人の社会人に対する評価をしていただけたのが、すごくうれしかったです」

一方、貝谷さんが野田さんと出会ったのは、1998年ころだ。

貝谷さんは日本の障害者が置かれた状況に不満を持ち、大学卒業後、単身米国に渡った。そして、米国の障害者に「状況を良くするには政策を変えなければ」と力説され、カリフォルニア大学バークレー校に入学した。

専攻した行政学の修士論文には実習が課せられていて、米国の官庁は実習生を受け入れていた。ところが、日本での実習を希望した貝谷さんに対して、霞が関は「前例がない」と受け入れなかった。困った貝谷さんを受け入れたのが、野田さんだった。

現在、上智大学大学院の博士課程で研究者としての自立を目指す貝谷さんは、「これからも良い関係であれたらいい。研究者として実践者として、より具体的なことを提言していけたらいいと思っています」

今回のPTの発足式では、居並ぶ議員や官僚を前にADAと米国の現状についてのプレゼンテーションを行った。

ADAの成立には、議員や政府職員も含めた障害当事者がワシントンを動かす大きな力になった。それに比べ、永田町や霞が関には当事者の姿がほとんどない。これは「チャレンジドを納税者に」を政策化していく上で大きな問題だ。

チャレンジドが身近にいれば、その人を通して障害者政策の問題がリアルに見えてくる。政治の舞台に上がった「チャレンジドを納税者に」の主張が、財政危機の中でより一層の国民負担を求めるだけの議論に呑み込まれないようにするためには、PTが目指しているような「チャレンジドが真に能力を発揮できる社会づくり」を、チャレンジド自身が見守り、また、求めていくことが是非とも必要だ。

森さんや貝谷さんは特殊な事例かも知れないが、どういう形であれ、もっともっと政治に関わるチャレンジドが増えてくる必要がある。

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