公明新聞 2001年11月21日 より転載

マンガ家として活躍するチャレンジド

安藤美紀さん

「言葉を!」と母の奮闘

関西を拠点に、チャレンジド(挑戦すべき使命、課題を与えられた人との意=障害者)の自立と社会参画、特に就労の推進を目指し目覚ましい活動を続ける、社会福祉法人「プロップ・ステーション」(竹中ナミ理事長)。安藤美紀さんは、両感音性難聴による聴覚障害者だが、プロップ・ステーションのバーチャル工房に所属し活躍するマンガ家。mikiのペンネームを持つ。

「生まれつき耳が聞こえない、言葉も話せない2歳の私に、母は一生懸命に言葉を教えようとしました。この子が普通の子と同じように生きていけるようにとの思いだったのでしょう。

大きな補聴器を付けられて、家の中でも、道を歩いていても、大きな声で言葉を教えようとした。補聴器を付けても何の音なのかは分からない。母は私の手を取り、顔を近づけて、これは『さ・く・ら』、あれは『も・も』だよと。母はたくさんの絵をかいたカードを作りました。『いぬ』と書いたカードには犬の絵が。家の壁には『かべ』と、歯ブラシ には『はぶらし』のカードが張られた。家中カードだらけで、訪れた人はびっくりしていました。海の砂を入れた箱を揺さ振り、そこには『ざあー』のカードが。『はひふへは』の発音訓練の際は、ろうそくの炎が揺れるように吹いて練習しました」

美紀さんに言葉をもたらそうと奮闘する母。やがて大学病院の医師が、全く耳が聞こえないのに、どうやって言葉を覚えたのかとびっくりするほどに。小学校から普通の学校に通う。高校卒業後、大学進学で鹿児島から東京に。

マンガが心の友だった


「”心”のあるマンガをかき続けたい」 −マンガ制作に取組む安藤美紀さん

「母は東京に行くのに大反対で、ひと月くらい 泣いてばかりいました。短大では日本画を学び、その間、マンガをかいては出版社に持ち込んでいました。幼いころ、母に言葉の訓練で毎日、絵日記を書かされました。絵をかき、次に絵の意味を書く。そこからマンガをかく基礎ができたのだと思います。

小学生の時、『マンガをかいて』といわれることがうれしかった。耳が聞こえない、言葉が思うように話せない。みんなと違うけど、マンガがかけると私をみんなが認めてくれる。マンガが私の心の友でした。高校2年の時にはりぽん新人漫画賞も受賞していましたが、前に立ちはだかる壁は厚いものでした。私には中・高校生が読みたくなるような恋愛マンガをかく能力もなく、周りの人がどんな会話をしているのかも分からない。これではマンガ家になる資格はないのではと、一時はマンガ家になる夢を締めていました」

障害は”個性”なんだ

短大卒業後、就職。都の障害者職業訓練センタ一に通ったことがきっかけで、多くの障害者と出会う。

 「いろいろな障害を持つ人とのふれ合いで、心のゆとりをもらいました。障害を一つの個性″として受け止めることを教えてもらいました。初めて手話も覚えました。かつて母は絶対に手を使わせてくれなかった。母にファクスを送ると『いいんじゃない、もう大人なんだから』って。手話を覚えて、気持ちが本当に楽になりました」

「プロップ」との出会い

転勤で大阪へ。新聞社の仕事に携わるなか、ある記者の紹介で「プロップ・ステーション」の竹中ナミ理事長、通称ナミねぇ″に出会う。

「雷に打たれたような気分でした。もしかしたらこの人が社会を変えてくれるかもしれないって思いました。自分白身の障害を素直に見つめ、そして困難や苦労を引き受けていこうと前向きになれたのは、プロップの存在があったからです。障害者でなく、チャレンジド〃として生きる糧を手にした思いでした」 

今、会社勤めの傍ら、マンガ制作に取り組む。「毎日があっという間です」と笑う安藤さん。小学校1年の息子との2人暮らし。母子のコミュニケーションの手段もお互いのかくマンガという。

「先日、学校の歌の発表会で私が手話をしました。その模様を映したビデオを皆で見た時、うちの子が『これが僕のお母さん、耳が聞こえないけど頑張っているんだ』と言ってくれたんです」

写真:安藤美紀さん

あんどう・みき 1969年鹿児島県生まれ。
東京純心短期大学美術学科卒業。高校2年生の時、第19回りぼん新人漫画賞を受賞。社会福祉法人の「プロップステーション」に所属し、チャレンジドの就労支援活動に取り組む。さまざまな雑誌などで4コママンガ等を連載中。

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