月刊CYBiZ 1997年12月号より転載

さいふうめいの サイバーステージへの長い道 [第20回]

働く障害者の活気にSOHOの原点を見る

文=さいふうめい 撮影=熊谷 章

さいふうめい●1956年久留米市生まれ。
劇作家。九州大谷短大講師。
「「少年マガジン」誌で「勝負師伝説−哲也」という漫画の原案を担当しています。
麻雀の神様・阿佐田哲也の一代記です」

チャレンジドが働くためには4つの間題をクリアすればいい

「チャレンジドを納税者に」というスローガンを掲げる「プロップ・ステーション」の最初の仕事はアンケートを取ることだった。

全国の重度の障害者の声を集めたのである。回答をしてくれた人の80%が「働きたい」という希望を持っていた。そして、障害者にとってコンピュータは武器になる、と。91年5月のことである。

実行に移すための問題点は4つあった。

  • (1)勉強をする場所がない。
  • (2)勉強しても力を評価してくれる人(機関)がない。
  • (3)仕事をくれる会社がない。
  • (4)通勤でぎない。

障害者にとっては絶望的な項目が4つ並んだ。しかし、ナミねぇはこう考えた。
「勉強をする場所をつくって、能力をきちんと評価して、仕事をくれる会社を探して、在宅でできるようにすればいいやん。やることは4つしかないんやから、その4つをやろう」

こういうのを「ポジティブ・シンキング」という。コンピュータ周辺にはどうも「口先だけポジティブ・シンキング」の奴が多すぎる気がする。

この4項目は後で詳しく論じるが、「SOHO」の本質論になってくる。


プロップ・ステーションの面々。中列右端が筆者。

91年バブルの絶頂期、250もの団体が協力を約束

ナミねぇたちが91年の段階で、コンピュータに目をつけ、アンケートを取った動機がユニークだ。当時コンピュータは50万円以上するものだった。ただでさえ、お金のない障害者にとっては高嶺の花だった。几庸な人であれば、コンピュータと障害者を結び付けようとはしないはずだ。
「その頃、コンピュータはエリートの世界のものでした。障害者にとってはハードルの高いものに見えました。しかし、コンピユータがあると、『見えない人』『聞こえない人』『動けない人』同士で会議ができると聞いたんです。
チャレンジドが集まって会議をするのは大変です。喫茶店で集まろうにも、そこに階段があったら駄目なんですから。
ところがコンピュータがあれぱ通信で会議ができるし、自動的に議事録もできるというのです。これはいい、とさっそくコンピュータの勉強会に参加してみたんです」

文明とはそもそも、こういう精神が発展させるのである。「人間関係に疲れた」とか「通勤がかったるい」なんて反骨精神も根牲もない奴らに新しい世界観は担えない。

で、ナミねぇたちはさっそく行動を開始した。時は91年、バブルの最盛期である。

「住専」は進軍ラッパを吹き鳴らし、「証券会社」は沖縄戦におけるアメリカ軍のような戦いを繰り返していた。コンピュータのソフト会社も例外ではない。伝え聞くところによると、原価1万円のものを50万円で売るような市場だったという。ナミねぇたちの「支援してください」という申し出に心地よく応じてくれ、全国から250の団体の代表者が名乗りを上げてくれた。

バブルがはじけて仕事がなくなる。が、念願のコンピュータをタダで入手

ところがバブルがはじける。支援を約束してくれた社長さんは、端から会社をたたんだり、社員を全員クビにしたり。ナミねぇはとんでもない業界に首を突っ込んだな、と思った。しかし、そこで挫けない。
「不況はいつか好況に変わるんですから、そのときまでに枝術を身につけておけばいいんちやうかな、と考えたんです」

とにかくセミナーを始めたかった。それまでは住居のあった西宮が活動の拠点だっが、仕事をくれる会社はほとんどない。そこで企業が集まる大阪に拠点を移した。

コンピュータは「アップル社」に5台提供してもらえないか、と申請。ところがアッブル社から10台送ってきた。狭い事務所はコンピユータの入った段ボール箱で埋め尽くされた。
「アップルに『10台は間違いじゃないんですか?』と電話したら、『間違いだけど、いいです。上げます』という返事なんです」

レーザープリンタなども含めて、1000万円近いコンピュータがアップル社から提供されたのである。アップル社はこの後さらに10台。現在までに25台のコンピュータをプロップ・ステーションに提供している。

ぴかぴかのコンピュータが手に入って、ナミねぇは欣喜雀躍した。しかし、コンピュータがそのままでは使えないことを知って、ナミねぇは再びがっかりした。コンピュータ本体以外にソフトが必要なことを、この頃のナミねぇは知らなかったのである。

大阪府に助成を頼んだ。期せずして、大阪府からは申請した額の満額の助成が得られた。念のため付け加えると、自治体が満額を認めることは滅多にない。
一般に申請した額の半分とか3割ぐらいの額を認めるというのが通常だ。

大阪府に本拠地を移して正解だった。悪運が強いとしかいいようがない。私も悪運だけで今まで持ってきたが、悪運の強い人間には何となく共通項がある。

コンピュータの先生は新聞で募集。週2回のセミナーをスタート

次に教えてくれる先生を探さなくてはならない。新聞に「ボランティアでコンピュータを教えてくれる技術者を求めています」という記事を載せてくれないか、と掛け合った。

ナミねぇは「マックが使える人を募っている」と書いてほしい、と頼んだ。持っているコンピュータはマックなのだから、「DOS」の技術者では困る。ところが、担当者は「特定のメーカーの名前を出すのは良くない、コンピュータという表現では駄目か」と言う。結局、マックという言葉は新聞に出たのだが、新聞記者でさえそんな認識しかなかった時代に、ナミねぇはチャレンジドとコンピュータを結び付けようとしたのだ。

新聞記事が出ると、反響は予想以上にあった。30人の技術者が手を挙げてくれた。バブルがはじけ、技術者たちも何かを求めていた。

アップル社の記事を見て、NECからも「協力したい」という申し出があった。

これでマックもウィンドウズにも対応できる。ソフトも開発企業からの支援でまかなった。

セミナーは水曜日がマック、金曜日がウィンドウズ。時間は夕方の6時半から2時間。

最初は講習料タダで始めた。しかし殆どの人が伸びなかった。理由はおおよそ見当はつく。そのときは切実にコンピュータの技術が磨きたくて来た人が少なかったのだ。 タダだから行ってみようか、という人が多かったのだ。

先生がボランティアで来てくれているのに、つまらない理由で遅刻をしたり休んだりする生徒がいる。これでは悪循環だ。

今では1回2000円講習料を取っている。自分の将来への投資としてコンピュータを学びに来ている人が多くなった。

これまでl50〜160人の人が学んで、20人程度の人が在宅で仕事を得ている。

もっと仕事を得るには行政や企業に認知されることが必要

今のところプロップ・ステーションの支援をしている大企業の仕事が多い。「中小企業の仕事はどうしても急ぎになります。チャレンジドにスピードを期待されたら困ります。確実にやりますから、速さを期待せんでください、といったら、どうしても大企業の仕事になってくるんです」

先月紹介した以外では、長崎の森正さんがマィクロソフトの在宅社員として働いている。法人向けのホームページに載せる情報を翻訳する仕事をしている。

翻訳は在宅でもできる。インターネットが一般化し、翻訳者の必要性は増えている。プロップ・ステーションではこの秋から新たに「翻訳者養成コース」を設けている。

ちょうど翻訳担当の先生である迫田治さんと服部優子さんがいたので、オールイはこう尋ねた。
「アメリカで開発されて、日本の小さな会社が販売しているようなソフトは、マニュアルの日本語がひどくて、いくら読んでも埋解できません。そういうのが解決されると助かるんですが」

服部さんによると、マニュアルは一般にコンピュータの枝術者が翻訳するケースが多いらしい。自分はコンピユータに詳しいから、わからない人の立場になれないのだ、と。

そういう仕事こそチャレンジドにふさわしいのではなかろうか。
「これからは職安の代行のような仕事が増えてきますから、行政や企業にももっと認知される必要があります。将来は社会福祉法人化を目指しています」(竹中さん)


週2回のセミナー。(写真提供、プロップ・ステーション)

すべての始まりは、ナミねぇの長女が障害を持って生まれてきたこと

福祉の世界にもコンピユータ業界にも場違いな感じのナミねぇが、どうして現在に至ったかをかいつまんで紹介する。ナミねぇは神戸生まれの神戸育ち。ただし、両親は九州の出で、血は九州らしい。頬骨が出ているので、確かに南方系の顔だ。私と同じで先祖はジャワ原人である。

プロップ・ステーションは「関西のノリ」だとナミねぇは言うが、物事を深く考える前に行動する体質を私は「九州のノリ」と見る。プロップ・ステーションがうまくいっているのば関西人が上手にフォローアップしているからだろう。

ナミねぇの両親は自由奔放に子供を育てたらしい。
「私が一番上で、下に弟が2人いますが、まともに学校を出たのはいないんです」

ナミねぇは高校1年の夏体みに、アルバイト先の人と恋愛して、一緒に暮らしはじめる。2年のときに、同棲が学校にばれて退学。退学の埋由は「不純異性交遊」。信じられないが、30年前はこんなことに目くじらを立てていたのだ。

そして正式に結婚。2歳で長男を産み、25歳で長女を産んだ。長女は重い障害を持って生まれた。身体が不自由なぱかりでなく、知能にも障害があった。母親を認識することもなく、一生を終えるかもしれない(現在は23歳)。

ここから「障害者」に目が開かれていく。手話を覚えて、聴覚障害者の手伝いをしたり、介護ボランティアをやったり。で、日本の障害者はボランティアの都合に合わせて助けてもらう感覚だが、アメリカでは障害者は自分の都合に合わせて、お金を払って人を雇うことに気がついた。

89年にナミねぇは、有料介護を組織化する「メイン・ストリーム」運動を始めた。障害者と介助者を登録し、障害者が介助者を時給で雇うシステム作りである。このネットワーク作りが、やがてプロップ・ステーションに発展していく(プロップを設立した頃、離婚も経験した)

ここでわかることは、ナミねぇは、そもそもが「自律の思想」の持ち主なのである。「甘ったれ」や「暗黙の了解」や「日本的な組識の論理」が嫌いなのだ。

ここで私が考えるSOHO本質論に入っていきたい。


技術を身につけるため数多くのソフトを用意している。

チャレンジドによるコンピユータグラフィックの展覧会開催
第1回チャレンジドアート展

プロップ・ステーションのコンピュータセミナー・グラフィックコース卒業生と受講生による、初めてのグループ展が、大阪のツインタワー21で10月1日から31日まで開催されました。
これはインターネットでも公開されています。
URL=http://www.prop.or.jp/challart/menu/index.htm

 

さいの考察

SOHOって、何なんだ

私はSOHOのそもそもの発生の経緯を知らない。というより、アメリカの「シリコン・バレー」のような理想を持って生まれた曼ものだと思い込んでいる。

シリコン・バレーでは、そこにいる自立した工ンジニアたちが、プロジェクトによって、集合・離散を繰り返す。会社のようなビラミッド構造があるのではなく、アメーバのような形のないスタイルなのである。曼荼羅構造といってもいいだろう。少なくともそんな世界観を目指したのが、シリコン・バレーの理想だった。

その世界でば自律あるいは自立の心が「扇の要」なのだ。SOHOがこういう世界観を持ったものでなければ、わざわざ20世紀の末期に登場してくる歴史的意味がないではないか。

たまたまコンピュータという便利な道具が出現して、電話線でつなげば会社に出向かなくても便利に暮らしていける、というだけなら、縄文人のように、竪穴式住居に住んだほうがもっと便利ではないかいね。空気も汚れないし。

ところが今、日本で「SOHO」といえば「下請け」の意味である。独立といってもそれまでいた会社の仕事を下請け的にやっているだけというケースも多い。

それをSOHOというなら、その失敗例を私はたくさん見てきた。私は演劇周辺・活字周辺で糊口を凌いできた人間だ。「編集ブロダクション」「テレビやCMの制作プロダクション」は”SOHO”である。出版社や放送局の仕事をその社屋の外でやってきた。商品を電話線の代わりにバイク便で届けていただけである。 「フリーライター」「フリーカメラマン」「フリ−のディレクター」なども”SOHO”である。これらはすべてバブルの申し子であった。

そう考えると、日本では下請け仕事としてのSOHOの実験は済んでいる。

「下請け」が最後にどうなるかは今の日本を見てみれば明らかだ。「自律」ではなくて「持たれ合い」で食ってきた連中は、今、曼荼羅構造に移行できなくて青息吐息なのだ。「ご縁」で仕事をもらっていた親会社が左前になってくると、親会社と一緒に沈んでいった。

ところが自律のSOHOは、「テレビマン・ユニオン」や「吉本興業」のように放送局と対等に付き合えるし、放送業界では曼荼羅構造の一つの因子になり得ている。それは「フリーライター」や「フリーカメラマン」であっても同じだ。

ナミねぇが考えた「4項目」は、実は日本にSOHOを根付かせる試金石の役割を果たすのである(もちろん、プロップ・ステーションが予想外にカをつけ、ファシズムに走ったら結果は余計悪くなるのだが)。

SOHOといえば聞こえはいいが、この不況の最中にわざわざ下請けに回っている人がたくさんいるような気が、私にはする。

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