月刊CYBiZ 1997年10月号より転載

さいふうめいの サイバーステージへの長い道 [第18回]

MSとコンサルティング契約したパソコン好きな全盲の大学生

文=さいふうめい  撮影=佐々木啓太 イラスト=池田須香子

さいふうめい●1956年久留米市生まれ。
劇作家。九州大谷短大講師。 「「少年マガジン」誌で「勝負師伝説−哲也」という漫画の原案を担当しています。
麻雀の神様・阿佐田哲也の一代記です」

ウィンドウズと障害者の関わりを決定するキーパーソンに

マイクロソフト社(MS)は、細田和也さんとコンサルタント契約を結んだ。障害者にやさしい環境を考えてのことである。

今のところほかの障害者と契約する予定はないという。加えて、プラットホームは「ウィンドウズ」にきまったようなものだから、これからPCと障害者の関わりを決定付けるキーパーソンは細田さんということになる。

MSの社員になるには、先ず優秀であること、という条件がある。頭脳明敏であること。それは契約であっても障害者であっても同じなのだ。

実は、私はこれまで2500人近くの人を取材してきた。頭のいい人もたくさんいたが、インタビューに対する受け答えの確かさ、という点で細田さんは五指に入る人である。

私は質問の真意をくみ取り、その答えを瞬時に考え、伝わりやすい順序に並べ、できるだけ的確な表現を選ぶ。私たち物書きが、文章を書くための修行としてやってきたことを、細田さんは、メモ取ることなく頭の中だけでやってしまう。

MSがいくらコンサルタント料を払うのかはわからないが、MSでなくてともいい給料で来てほしい会社はゴマンとあるはずだ。こういう人を引いてくるのだがら、今のMSはバットが振れている。私はPC界のことは詳しくないが、こんな状態なら、MSはNCグループを蹴散らすのではなかろうか。

さいのうんちく

雀聖・阿佐田哲也は運を上手に使う方法として、「バットの振り切れた相手との勝負を避けること」と言っている。バットが振れているバッターは当たり損ねもヒットになる。だから、傲慢さが目立ってくる。周りは、一泡吹かせてやりたくなったり、噛み付いてみたくなる。しかし、それは運の無駄遣いなのだ。黙っていたほうが、運が温存できる。

実際、PC雑誌にはMSを掫揄するような記事をたくさん見掛けるが、今はまずい。

驕れるものは久しからず、という。日本史をひもといても、最高の頭脳集団を持って権力を握った徳川家も300年は続かなかった。MSにしても持って100年ぐらいだから、文句を言うのはそのあとがよろしい。

組み立てラジオや無線ハムも。細田さんにとって体の障害が障壁になることはない

細田さんは1974(昭和49)年、京都生まれの23歳。淑徳大学社会学部の4年生である。

生まれてすぐに眼のガンにかかった。移転の早い場所なので、眼を摘出しなければ命が危ない。細田さんの両親は、結局、命のほうをとった。手術をしたのは1歳5ヵ月の時だから、細田さんには「目の見えた記憶」はない。

中学までは地元の盲学校に通った。子供の頃から機械いじりが好きだった。

「父親がアマチュア無線の愛好家で、身近に部品があったので、トランジスタラジオやテスターのようなものを組み立てていました」

父親ができることを自分もやりたい、と思った。弟さんも機械いじりが好きだったので、環境もよかった。

組み立てるときは、自分でハンダごてを持った。目が見えなくて、どうやってハンダ付けをするのか想像できないが、練習でできるようになった。

「やけどもしましたが、工夫してできるようになりました」

私はかって「ヘレン・ケラー物語」という戯曲を書いたことがあり、ヘレン・ケラーのことをかなり調べた。ヘレンは3つの障害を抱えていたが、私たちが概念化しえない「根源的な力」には満ち溢れていた。ヘレンは障害を乗り越えたのではない、と思った。彼女は「根源的な力」に忠実に生き、自分に3つの障害があったかなかったかを最重要項目にしなかっただけなのだ。

私たちが概念化できる能力とは、実は決定的なものではないのだ。

細田さんは中学3年生のときにアマチュア無線の免許をとった。アマチュア無線の試験は口頭でも受けられるのだ。

「行動半径が限られていますから、通信への憧れはありました」

高校は東京にある「筑波大付属盲学校」に進んだ。

「国立の盲学校はそこだけだし、東京への憧れもありました」

盲学校でパソコンとの出会い、パソコン通信で人間関係が広がる

筑波大付属というぐらいだから、優秀な人が集まるのだろう。3学年で70〜80人ぐらいいる生徒の中にPCを持っている先輩がいた。機種は98ノート。「MS・DOS3.1」の時代だった。画面上の文字を音声化できつつあり、それが細田さんにとってラッキーだった。画面の文字を読むことができたのだ。

「アプリケーションがほとんどなかったので、実際にできることはFDをフォーマットするぐらいでしたが」

そしてパソコン通信を知った。しかし、寮には電話線を引くことができなかったので、パソコン通信は諦めざるをえなかった。が、細田さんは屋上にアンテナを立てて、アマチュア無線をやっていた。アマチュア無線用のモデムを使って「パケット通信(*)」をやることができた。


非常に明確に語る細田さん。中央がマイクロソフトの道白さん。手前は筆者。

目がみえないのに、どうやって覚えたのか不思議な気がするのだが、「やっていれば覚えられます。点字のマニュアルもあったかもしれませんが、マニュアルがあればできるというものではありませんし。結局、やる気の問題です」

必ず、ここに戻ってくる。障害者と健常者の間に垣根があるのではなく、やる気のある人とない人の間に垣根があるのである。


マイクロソフトとコンサルティング契約をした細田さん。

やがて、細田さんは自分のPCを持つようになる。機種は98ノート。音声出力装置は先輩に安く譲ってもらった(これは今でも使っている)。

パケット通信を始めて、一気に世界が広がった。フリーソフトをダウンロードすることができる。フリーソフトはたった1行の紹介文から内容を把握しなければならない。それは無理なので、電子会議室に質問した。そこで、情報・人間関係の輪が広がった。

ウィンドウズの全盛の時代。全盲にはマウスが使えないが、周りにユーザーが増えたのは歓迎

PCへの興味はさらに深まり、大学ではコンピュータを専攻したいと思うようになった。全盲でも受験できそうな大学があり、1浪すれば門は開かれそうだった。細田さんは1年待ったが、結局全盲の人には門は開かれなかった。それで大学は社会学を専攻することにした。

「自分を表現する手段としてはPCは重要です。PCを使って仕事をしたいと思うようになりました」

そんな時に、MSがコンサルタント契約を結ばないか、と申し出てくれたのである。ラッキーといえなくもないが、細田さんの生き方には、「必然の種」はある。

当然だが、細田さんは「ウィンドウズ・マシン」は持ってはいるが、使ってはいない。日常使っているOSは「DOS」と「UNIX」である。音声に頼る以上、コマンドを打ち込んで「エンターキー」を押すというプロセスを省くことはできない。

目が見えない人には、ウィンドウズは優しくはない。ウィンドウズ・マシンが時代を席捲するのは、目が見えない人にとって好ましくないようにも思える。

「現実認識は大事です。PCが使いやすくなり、ユーザーが増えれば、それだけ理解が深まります。PCの進歩は障害者にとってもプラスに働くと思います」

大きな目で見れば、私もそう思う。しかし、どんなプロセスで変化していくのかは、私にも想像できない。私の手元に『こころリソースブック』がある。障害者向けの機器やソフトを紹介した本だ。そのほとんどは小さな会社やグループが開発している。そして、ウィンドウズに対応しているものは、ほとんどないのが現状だ。それらは仕切り直しをしなくてはならない。

MSにはソフトや周辺機器の開発者を積極的に支援してほしいと思う。少なくとも視覚障害者周辺はMSがガンガン引っ張らないと、障害者はパソコンから離れてしまう。MSに障害者問題を押し付けるわけではないが、弱小・零細の会社やグループは、やりたくてもその力がないのだ。

良いことは、お金のある人が、お金のある時にやる。「障害者の窓」はそこまでやらないと開かない。

さいの提案
MSは障害者を視野に入れたパソコンを作ろうとしている。これは大変いいことだ。いいことは素直にほめよう。

(*)パケット通信

パケットという小さい単位に分割しながら、データを転送する方式。1つ1つのパケットの宛先を付加して送信する。細田さんは、無線ハムとPCを繋いで、パケット通信をしていた。ちなみに、商用パソコン通信と無線ハムを接続するのは違法。細田さんは草の根パソコン通信網にアクセスしていた。

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