初めて学ぶエレクトロニクス工作入門 (増永 清一・北川 一雄 共著/オーム社)(1997年8月発行)より転載

チャレンジド(障害者)に仕事を

竹中ナミ

インターネットとかマルチメディアとか、新聞に出ない日がないような毎日です。使うてみなあかんかな、やってみなあかんかな、触ってみなあかんかなと、なんとなく強迫観念にかられている方もおられることと思います。 私は、NPOの現場の人間として、インターネットがどんなふうに使われているか、インターネットが、「えっ、こんなふうに使えるのん? こんなふうに役立つのん!?」と思われるような事例を紹介したいと思います。

チャレンジドは可能性を秘めた人たち

さて、「チャレンジドに仕事を」というタイトルですが、チャレンジドというのは、障害を持っている人を表す新しい米語、アメリカの言葉です。「障害者」という文字は、さし障(さわ)りと害(がい)がつながっていて、障害者はそういう人やと言ってる。ものすごい後ろ向きです。

実は、私の娘が重症心身という障害で(いろんな障害が重なっていて、どれもみな重い、ということです)、生後数か月の赤ちゃんのような状態が一生続く、あるいはお年寄りにたとえると、かなり問題行動のある痴呆症のような状態が一生続く、そういう24歳になる娘がおります。そういう娘を授かって、育児書もマニュアルがないもんですから、いろんな障害を持っている方とつきあって、どういうふうに育てていったらいいのか勉強しよう、自分でマニュアルを作ろう、と思ったのがチャレンジドとのお付き合いのきっかけです。

目が見えなかったらどんな時に困って、どんなふうに解決できるんか、聞こえへんかったら、しゃべれへんかったら、どんなサポートが要るんか。何が不都合で、何は不都合やないんか…動けへんかったらどんな工夫が必要なんか、自分でものごとを考えられへんかったらどうしてあげたらいいんか、というようなことを、それぞれの障害を持っている方から教えてもらってたんです。教えてもらうためにやっていたことが、外から見ると、ボランティア活動というふうに呼ばれたりしていました。

そういう体験の中から、娘のように全面的に何もできず、明日の命も、全部世の中が支えてくれないと続かんというような人はごくわずかで、他の方々は、実はいろんな秘めた力を持ってはるんや、というのを私は実感したんです。

そういう人たちが「障害者」という後ろ向きな言葉で、ひとくくりにされて、「そんなに障害が重いんだったら(仕事は)せんでもいいよ、年金なんぼあげるから」とか、「電車には一人で乗らんでも、介助者付きやったら半額にするよ。一人で出歩かんとき」というふうに扱われている。なんでもお金をあげることで解決したら済むと思われているところが、実はおかしいんです。

チャレンジドも仕事ができるようにと、プロップを設立

これから高齢社会になると言われて、私も団塊の世代で、そろそろ自分の老後というものを真剣に考えないとあかん人間です。私みたいな団塊の世代がどーっと年寄りになって、私が娘のような状態になったときに、倒れ込むベットや、おしり拭いてくれる人はいるかというと、これは無理やなと思います。

そこで私は、働く意欲のあるたくさんのチャレンジドの能力をちゃんと生かしていくような社会にすることこそが、高齢社会を乗り切る道ちゃうかしらんと考えたんです。私が体験から勝手に考えたとはいえ、自分自身でそれを確認してみたい、自分の活動のなかでそれを実証してみたいという思いにかられて、たくさんのチャレンジドの方と一緒に「仕事ができるようになろうよ」という活動をやっているのがプロップステーションです。

プロップでは、機関誌「flanker」を、年4回、ボランティアで発行しています。この機関誌も、チャレンジドの編集員たちがコンピュータネットワークを駆使して作っています。編集長はベッドの上に居るんですよ。彼は大学生の時、鉄棒から落ちて首の骨を折ってしまいました。彼との出会いはこんなふうでした。

私は兵庫県西宮市で娘を連れて「自立支援」のためのチャレンジドのグループ活動をやっていました。そこで、プロップを発足させようかという話を重度のチャレンジドの子らとしているときに、彼が相談に来ました。生まれて初めて、電動車いすで、家から1時間かかって会議に参加しに来たんです。

「あんた名前なんていうの?」「(か細く)桜井隆一郎です」「は?」「(か細く)桜井隆一郎です」「あんた声小さいのは性格なん? それとも障害のせい?」って聞くと、また細い声で「性格です」。で、「ああ、そうなん、そんなら性格変えたらいいわな」、言うてたのが、今や機関誌の編集長で、「ナミねえ、原稿遅いやんか、どないなってるねん!」とか偉そうに言うんです。

社会的な役割を担うっていうのは、人間をすごく変えるもんだなと思います。

チャレンジドが先生に

プロップの活動の中で、ここ数年のコンピュータのネットワークの発達が、チャレンジドの能力を生かすのに非常に有効だということが実証されつつあります。

プロップステーションでは、チャレンジドがコンピュータを覚えて、あるいは被災地の子供さんたちがコンピュータを覚え、ネットワークを使って、自分たちの被災体験を風化させないように情報発信をしていけるようになろうよ、という趣旨で「プロップ神戸プロジェクト」を始めました。

このセミナーは、大阪のプロップ・ステーションで長年コンピュータを勉強し、人に教えられる技術をも習得した重度のチャレンジド自身が「対価を受け取る仕事として講師をする」という形で始めました。神戸プロジェクトでは、チャレンジドの講師が三人、先生をしております。

一人は、ものすごく絵が好きです。絵が好きなんですが、足は両方まったく動かないし、左手も麻痺してるし、右手は動くんだけど、脳性麻痺独特のアテトーゼ(不随意運動)のせいで、ばぁーっと揺れちゃう。だから、まんまるの円とかまっすぐな線がぜったいに描けない。表現力もすごく持っているけど、幾何学的な部分を持った絵は自分には一生描けないと、あきらめていたんです。ところがその彼が、ほんの1年前にコンピュータに出合って、いまは、ばりばりグラフィックをやって、なお、かつ、アニメーションまで自分で創っています。もちろん、直線も曲線も思いのままです。

コンピュータ・ネットワークのなかには無料のソフトがあります。彼は母子家庭で、かなり貧乏なもんで、無料のソフトを一晩中探してきて、自分で組み合わせてアニメーションを描けるようになった、というすごい子なんです。

もう一人は、足でマウスを操作するお兄さんです。彼はチャレンジドばかりの印刷屋で印刷をしていました。プロップの機関誌でも、彼は編集員の一人として加わっています。で、編集長が、コンピュータのネットワークを活用して、次の号はこんなテーマでやりたい、誰はどこそこへ取材に行きや、と指示を出しますと、動ける人間は取材に行って、動けない者は原稿を校正して、レイアウトソフトを使って画面上でレイアウトをして、チャレンジドばかりの印刷屋さんに出す、という行程で作っています。

コンピュータ・ネットワークのが広げる可能性

そういう私たちの会の運営ですけど、スタッフの大半が重度のチャレンジドですから、なかなか会うことができないんです。家から出るだけでも大変な方がいるので、月に1回会合しようといっても、難しいんです。それで、コンピュータのネットワークを使って、段取りを全部やってしまう。会議やシンポジウムを開くにしても、直前まで、その打ち合わせは、全部コンピュータのネットワークを使ってやる。

女性もチャレンジドもある意味で一緒です。それぞれに、日ごろ非常に忙しいことをかかえていて、あるいは仕事しながら主婦をしているとか、子育てをしているとか、自由が非常に少ないなかで活動を続けるときに、インターネットがものすごい力になる。

パソコンは早く始めるのが一番

プロップ・ステーションが大阪でやっているチャレンジドのためのセミナーは、水曜日の晩がマッキントッシュのコースで、金曜日の晩がウィンドウズ95のコースという2本立てです。チャレンジドだけではなく、シニア枠というのを設けて、なお、かつ、ボランティアとして、高齢の方がものすごく活躍されています。車いすの10歳のお嬢ちゃんから80歳のお父さんまで、幅広い年齢層の方が、うちのセミナーでわいわいやっておられる。コンピュータの習得は、男女の別はほとんど関係ないですね。

じゃあ何が関係あるのかというと、これが年齢、もう年齢が如実に出ます。なんぼ障害が重かったとしても、10代から60代のお父さんより3倍早い。ですから、早く始めたほうがいいというのは間違いない。でも、60歳になって思いついても、10代の3倍の時間をかけてでも覚えていただく価値はあるだろうと思います。

チャレンジドの仕事の現状と未来

やまちゃんという、車椅子に乗っている堺の男の子がいます。彼は在宅で、IBM(アイビーエム)のノーツというプログラムを組む仕事をしています。

阪神・淡路大震災後、緊急の連絡にインターネットが非常に役にたった。ですけども、チャレンジドだとか、高齢の方だとか、あるいは主婦だとか、いわゆる情報弱者と呼ばれている人たちには非常に使いにくかった。パソコンが日常的なものにはなっていなかった、ということで、そういう方々のネットワークを作ろうという主旨から、IBM(アイビーエム)さんが、IPA(アイピーエー)という通産省の公募プロジェクトに応募したんです。緊急連絡だけでなく、このネットワークを使って、ついでにチャレンジドの在宅勤務の仕組みもいっぺんに作ってしまおうという企画を立てたんです。

在宅勤務の仕組みを作るんだったら、仕組みもチャレンジド自身が作ろうよ、ということになり、IBMとスクラムを組んで、やまちゃんがメインメンバーになって、プログラムを組み立てています。もちろんこれは正式な仕事です。

また、先ほど紹介したように、セミナー講師という仕事があります。コンピュータを覚えて何かをするだけでなく、教える仕事も、これからやっていきたいと思っているんです。

小中学校教育では、たとえば英語の授業はネイティブスピーカーがいいということで、外国人の方が非常勤講師として学校(公的な教育機関)に入ってらっしゃいます。コンピュータの授業も学校教育に導入されたけど、どうも先生たちは苦手らしいと聞いています。そういうときに、チャレンジドの人たちが学校に入って教えることが、これからどんどん増えていく可能性があると思っています。実際にチャレンジドの方が教えられるんか、教えてちゃんと効果があるんか、あるいは、子供たちがそういう人と触れあって習うことで何かプラス面はあるのか、ということを、私たち自身が実験的にやってみて実証したい。そのなかで機会が広がっていけば嬉しいと思っています。

仕事をすることで変わった介護者との関係

重度の方の在宅の仕事で、一番収穫が大きかったのが、実は、介護の関係が変わってくることでした。そこまでは私自身もまったく想像してなかったので、一番驚いたことです。

'95年の暮れから約1年間、野村総研さんから、在宅ワーク(リモートワーキング)の実験のための仕事を受けました。その実験メンバーとして、重症のチャレンジドの女の子と、四人の重度の男性チャレンジドが従事しました。

その彼女が若年性リューマチっていう難病なんです。小学校の時に発病して、身動きできなくなった。薬の副作用もあって太ったりして、それがまた体に負担をかける…という悪循環。おかあさんが24時間介護するっていう状態でした。車いすにも、おかあさんが抱きかかえて乗せる。家だったらトイレも寝ころんだ状態でできるけど、外出時はそのような場所もないので、おしめをはめて外出する、というようなお嬢さんだったんです。ですけど、絵や書道が非常に好きで、そういう趣味をコンピュータで充実させるためにプロップに勉強に来られたのが、出会いのきっかけでした。

その彼女が、「野村総研の実験に私もぜひ加わりたい。1時間でも2時間でも仕事をさせてほしい」と言うので、自宅で仕事をやってもらいました。内容は、インターネット上にあるNTTの新着情報の内容をサーチして、特定の情報をまとめあげる、という仕事です。メンバーが、「私は何曜日の奇数をやります」「僕は何曜日の偶数をやります」と仕事を振り分けて、新着情報をサーチする。内容がわかりにくいところには照会メールを送る。そして1日ごとに、「自治体情報は何件で、サイバーモールは何件で、照会メールを何件送って、返事はいくつ返ってきて、無効のものはいくつありました」と報告するという仕事を、在宅でやったんです。

自分の体力をうかがいながらですが、長いときは1日、4、5時間、仕事ができました。で、何が起きたかというと、その時間、おかあさんが自由になったんです。彼女は、「母は母の時間を、私は私の時間を持てるようになった、これがすごく嬉しい」と言い、おかあさんも、「日常的に一緒にいることには変わりないけど、彼女が(精神的に)ものすごく自立したと思う」とおっしゃいました。

それを聞いて、機械っていうのは人間のためにあって、人間が機械のためにあるんじゃないって、ほんとにわかりました。わかってるつもりでも、なかなかその実体が見えないですね。だけどそのときは、「ほんとにその実体を見たぞ!」という気持ちになりました。

コンピュータ・ネットワークは人が使うためにある道具

おそらく介護の担い手というのは、まだまだ日本では女性が多いわけですから、そういう意味で「女性ばかりじゃ(介護)やれへんよ」という声もあげつつ、なおかつ一人一人の人が、どうやってそれをみんなで解決していくのか、どうやったら一人一人の負担が軽くなるのか、介護される人の尊厳も失わない方法を生み出せるんか、アイデアや意見を出し合いたい。

そのための道具の一つとして、コンピュータやコンピュータネットワークを、これから活用しましょう!、みんなでぜひ一緒に考えましょう!

竹中ナミ [http://www.prop.or.jp/]
プロップ・ステーション代表。長女が重症心身障害児だったので、療育のかたわら障害児医療・福祉・教育を独学。障害を持つ人たちの自立と社会参加を目指して活動。1991年5月、プロップ・ステーション設立。翌92年4月、大阪ボランティア協会内に事務局を移転し、代表に就任する。高齢者・障害者の情報通信の利活用の推進に関する調査研究会委員(96年度)、厚生省障害者情報ネットワーク(ノーマネット)講師(96年度)、関西学院大学「インターネット」講師(97年度)などを歴任。

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