読売ライフ 1996年1月号より転載

車いすの青春 絵本作家を夢見て

体の筋力が低下する重度の障害を持ち、車いす生活を続けながら絵本作家をめざす久保利恵さん。21歳。新しい年を夢いっぱいで迎える利恵さんの"いきいき青春"をお伝えします。本誌・近彩

"命がけの越冬"家族が励まし合って

大阪府枚方市の北のはずれ、次々と住宅が建設されてニュータウンが生まれようとしている。

久保利恵さんと両親の一家も半年前に引っ越してきたばかり。

新居は利恵さんが二階の自室へ車いすのまま上がれるようにとエレベーター付き。どの部屋にも段差がない。トイレもふろ場も介護しやすいように通常の倍ほどの広さを取り、しっかりと手すりが渡されている。

「えらい借金を抱えましたわ」と父の政秋さん(49)と母の広子さん(46)。

利恵さんは95年3月に京都の成安造形短期大学を卒業し、十月に初の絵の個展を開いた。

記者があったのはその直後で、個展を終えた充実感が全身にあふれていた。初対面の印象は実に明るくてチャーミング。

「これまで支えてくれた人たちに見ていただければと感謝の気持ちだけで開いたのに、6日間の会期中に7百人もの人たちが来て下さって。励みになりました」と、20歳の節目に自立を決意した利恵さんのこれは大きな出発点となった。

利恵さんの絵に寄せられた感想文には、「温かな絵で心がなごむ」「ハンデを克服した絵に逆に励まされた」「かわいらしい絵」……。大胆な構図やアクセントの強い色づかいは見当たらないが、40号の大作「あさがおと女の子」のみずみずしい感性にひかれた人は多かったようだ。

花や風景画、そして童画など、色調は明るい。「どこかの出版社から私の絵本を出してくれないかなあ」と利恵さん。

74年11月8日に利恵さんは誕生した。広子さんは出産直前までつわりが長く続いたほかは異常もなく、ごく普通の出産だった。「3ヶ月ごろにおかしいと気づいたんです」。手足の筋力がほとんどみられないのだ。

数か所の病院を駆け回った結果、何万人に1人の『ホフマン病』(筋無力症)と知った。「長くは生きられない」。そう医師に告げられた時は、「頭をガーンと殴られたようだった」という。

この子は一生歩けない!

ショックと絶望で「いっそ3人で死のうと思ったこともありました」と政秋さん。

そんな両親の悲嘆をよそに娘は7ヶ月で「マンマ、乳ちょうだい」と言葉を発し始めた。

「くよくよしても何も変わらない」。広子さんが揺れ動く気持ちとサヨナラし「一生この子の手足になろう」と決意したのはこのころだった。

母と娘の一心同体の暮らしはそれから20年。そしてまだ続く。

「アンタのお陰で生活台無し。私の人生返してよ」と母の広子さんが言えば「私だって離れたくても離れられないんだから」と利恵さん。今ではそんな軽口もポンポン飛び交うほど。

大阪府警の守口署に勤務する政秋さんは、不規則な仕事の上に、オウム事件や阪神大震災、大阪apecとたて続けの応援で休む暇もなかった。「写生に遠出したくても車を運転してもらえないのが残念」と利恵さん。

入浴は父の出番。在宅時に3人で入る。母が娘を抱きかかえて浴槽に入り、父が助ける。小柄とはいえ体重30キロの介助は、母一人ではもう到底やりこなせない。

小さいころから入退院の繰り返し。冬の間はほとんど学校に行けず、高校のころからようやく小康状態を保っている。肺が弱いので風邪をひくとたちまち深刻な状態になる利恵さん。
「冬は嫌い。“命がけの越冬”なんだから」

運動不足の障害者にとって悩みは肥満だ。「専門医の診断を受け、自然食の食事療法をやりました。1日2食、野菜のみ。どんぶり1杯の青汁がご飯代わりという過酷なものでしたが、小学校5年で始め、中学1年のころには10キロ減らせたんです」と政秋さん。娘だけではかわいそうと、両親も同じものしか食べなかったという徹底ぶり。そんな努力が功を奏した。
「周りに支えられているんだから、健康づくりも勉強も絵の修業もやれるだけやろう」。これを一家の信条にとしてきた。

現在、利恵さんは普通の食事をし、母親の介助で大抵のことはやれるようになった。小・中学校では体育の授業をほとんど休まなかった。水泳もドッジボールも“利恵ちゃんルール”を作ってもらってこなしてきた。

「こうと決めればやり抜く子でしたね」。広子さんも認めるガンバリ屋だが、「がんこで、わがままなだけ」と本人は控え目。

利恵さんを支える広子さんの苦労は並大抵のものではなかっただろうが「意思をハッキリ伝える子なので、重度の知的障害や中途障害の子を持つ親に比べれば私などラク」と。

それでも、体調の変化には神経をすり減らす。「この冬は越せないのでは…」と何度覚悟したことか。そんな恐怖と比べると、天候の悪い日の通学やトイレの世話、学校の方針に変更を求めたりすることなどはなんでもないとすら言える。

上半身はコルセットで固定している。一見シャンと見えるが、「コルセットを外すと利恵の体はクニャとなる。障害者用のトイレにちょっとベッドが付いていれば……」と広子さんは痛切に思う。

車いすで町へ出ても、人はおおむね無関心を装って通り過ぎる。「手伝って欲しいと思う時はアベックの男性の方に声をかける。だって彼女の前では知らん顔できないでしょ」

短大の研修旅行に付き添いヨーロッパへ行った時「あちらの身障者への対応は、日本とは全然違う。何のわだかまりもなく、自然に手伝ってくれる」。福祉社会を声高に唱える割に日本の行政も一般市民も弱者に対する意識は低い。「せめて支え合いの心だけはもっとあってもいいのでは」と二人は言う。

私、絵本作家になりたい。早くからきめていたの

「中学のころ、絵本作家になろうと決めました」という利恵さんは、物心がつくころから絵の好きな子だった。周りの友達が進路を決めかねていたころ、早くも将来の目標を決めたのも、「自分は人の倍時間がかかるから」。と穏やかな人柄のどこにそんな芯の強さを秘めているのだろうか。

ちょうど久保さん方を訪ねていたとき、府立香里丘高校以来の親友だという友次陽子さんと石崎純子さんがやって来た。

「久保さんは好奇心旺盛で、何ごとにも意欲的。それに活発」と二人は口をそろえる。「でも、絵に関しては真剣そのもの。妥協しなかったね」と美術部同輩の友次さん。おしゃれもショッピングも障害を意識させないでフツーにつき合った高校時代。久しぶりに会話が弾み「絵本が利恵を呼んでるならその道が一番」と二人は利恵さんの肩をポンとたたいた。

高校の恩師で、美術担当の石田真弓先生にも会った。出産を間近に控えた先生は大きなおなかをさすりながら、サバサバした口調で教え子への期待を語ってくれた。

「“静かパワー”でじわじわっと迫る子でした。部のまとめ役を務め、根性は人一倍。当時のクラブは絵のうまい子が多く、遠慮しないでズバリ批評し合ったので利恵さんの絵も伸びたのでは」

広島の尾道での合宿は印象深い思い出だった。真夏の炎天下、男子学生がきつい坂道を車いすをかついで上り、「利恵さんは日射病の一歩手前の状態まで絵筆を握って頑張りましたよ」。その夜、寝ている利恵さんを1時間おきに寝返りさせているお母さんの姿を見て、深く胸を打たれたという。

一人では寝返りを打つことも、振り向くことも、手を机の上にあげることも出来ない利恵さん。お母さんは身の回りの一切や、絵を描く間も絵筆を洗ったり、画用紙を動かしたりと世話をやかねばならない。

「みんなは私が頑張っていると言うけれど、本当に頑張ってるのは母。そして支えてくれる父や先生や友達なんです」と利恵さんは言い切る。周りの人々の手助けがあってこそ、重度のハンデを負った人たちは希望を持って生きていける。

これまで車いすに触ったこともなかったという石田先生は、「生徒たちも彼女を助けながら多くのことを学んだはず。あの子のねばり強さで、きっと絵本作家への道を切りひらいていくでしょう」と結んだ。

ハンデを個性に自立へのスタートを

絵はその画家の思想や精神のあり様をあぶり出してみせる。利恵さんの絵は率直で愛らしく、生命力を感じさせる。特に高校の合宿で描いた水彩の風景画「尾道」には、見たままをキメ細かく表現する素直さと、真摯な少女の個性がにじみ出ている。

短大では日本画を専攻した。
「日本画は空間処理が独特で、面と線での描き方を学べた。でも、画材が扱いにくく、小皿を何枚も並べて色合わせする作業は私たちには大変だった」と当時を振り返りながら「今はスキッとした水彩画が一番好き」と言う。絵本ではいろんな手法を駆使したいと意欲満々だ。

「登場人物が最後に死んだり、殺されたりする残酷なのは嫌い」。おとぎ話の「カチカチ山」でもタヌキが泥舟で沈められるのはつらいとナーバスになる。
「みんなが幸せになれる夢と希望のある絵本を作っていきたいの」

利恵さんの習作を見せてもらった。主人公は空を飛んだり、散歩にでたりしている。作者が歩けない分、その思いが込められているのだろう。

ハンデも一つの個性といわれる。この先どんな作風を築いていくのか、その可能性に向けて真っすぐに歩む利恵さんの成長が楽しみである。才能の力量が問われるのはこれからだ。

1998年、久保利恵さんはしっかりと絵筆を握って自立へのスタートを切る。

障害者の在宅勤務にコンピューターを使おう!

障害を持つ人たちの就労支援や在宅勤務にコンピューターを利用する試みが、大阪市内で始められた。北区にある民間のボランティア団体プロップ・ステーション(竹中ナミ代表)がそれ。

プロップとは「支柱」の意味。障害者自身が助け合ってみんなの支えになろうとの意気込みで付けられたそうだ。

個々では、ソフトの使い方やプログラミングの講座を開設し、障害者が通勤をしないでも自宅で仕事が可能になるようにバックアップしている。

短大を卒業後、久保利恵さんも月に2回、この講座に通っている。「絵本作家をめざしているので、この方面の仕事をするつもりは今はないけどCG(コンピュータグラフィック)にも興味があるので」

受講に際して、利恵さんは電車で通ってみることにした。これまでは年に1、2回しか電車に乗ったことがないので、社会参加の積極的な気持ちもあって。記者も同行した。

自宅から最寄りの京阪電車楠葉駅に行く。車いすを見つけた駅員がサッと駆け寄り、車いすを押してホームまで。すぐに下車予定の北浜駅に連絡を入れる。北浜駅に到着するとすでに駅員がドアの前で待機していた。

最近は各鉄道とも車いす利用者への対応に前向きで、地下鉄でも三人の駅員が車いすを抱えて地上まで運んでくれた。

会場となる大阪市立社会福祉研修センターの一室では、すでに十人ほどの受講者がいた。車いすのままコンピューターと向き合っている人、両手が不自由なため、両足でキーをたたいている人などが、ボランティアの講師の指導を熱心に受けている。

「コンピューターは障害を持つ人にとっては便利で最適。鉛筆と同じように文房具の一つとして活用して欲しい。インターネットに参入しているので障害者のための求人ほか、あらゆる情報が簡単に入手できる」と代表の竹中ナミさん。

利恵さんは、初級と中級クラスを同時に受けている。「彼女は上達が速い。他の人にも、やればできるという自信につながって最近はみんなのエネルギーがワーッと高まった感じ」と竹中さん。

利恵さんは自在に“鉛筆”を動かし画面に「大きなかぶ」などの童画を色鮮やかにかいていく。最近のソフトではこんなパステル調も出せるのかと、技術の進歩に舌を巻く。習熟すると、アニメ制作や、印刷、出版関係などからの仕事も出来、しかも自室でやれるというメリットは大きい。

18歳以上の身障者の就業率は全国平均で34%。ほぼ3人に1人だがうち半数以上は福祉作業所などで働いている。コンピューターの普及によって、今後、健常者と対等な専門職への道が開かれよう。

やがて一家に1台コンピュータ時代が到来する。都市や地方による情報の地域差解消はもちろん、世界中にキー1つでつなげるのだ。

これまで“情報過疎”といわれた障害者の社会参入も大きく変化するに違いない。

「第1にやる気。みんなで教え合いながらやっていきたい。」と利恵さんは障害を持つ仲間に呼びかけている。

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