朝日新聞 1993年3月8日より転載

重度障害の先生ら大阪で、シンポ

公費の介護者制度の必要性提言

曽我部教諭と定藤教授

「復職は画期的なこと。教壇にも必ず復帰できる」──。首から下がまひ状態という最重度の障害を克服して2月に復職した尼崎市立中教諭の曽我部教子さん(49)に、車いすで学生に教える定藤丈弘・大阪府立大教授(50)が熱いエールを送った。二人の対談を中心としたシンポジウム「今、アクティブに!ノーマライゼーションへの道」が7日、大阪市西区土佐堀一丁目の大阪YMCA国際文化センターで催された。関西や関東各地から教師や福祉関係者ら約60人が出席し、障害者の社会復帰について話し合った。

復職画期的なこと

シンポジウムは障害者の就労を支援する市民団体「プロップ・ステーション」(竹中ナミ代表)が企画。第一部の2人の対談は、竹中代表が司会した。

最初に、曽我部さんが1989年8月にアフリカ旅行で乗った熱気球が着地に失敗し、頸髄(けいずい)を損傷した経過や、その後のリハビリの苦しさ、復職の喜びを話した。

現在は尼崎市内の教育センターに通って教材研究に取り組み、教室への復帰を目指している現状も説明した。「生徒たちが教師としての私を育ててくれました。また教壇に戻りたいとの一念でした」と話すのを、参加者らは静かに聴き入った。


教職復職や障害者の社会参加などについて話し合う曽我部さんと定藤教授ら =大阪市西区土佐堀1丁目で

基本的に学校など受け入れ側の問題

これに対し、定藤教授は「日本の現状では画期的なことだ。教育の問題だけでなく、障害者の雇用の点からもすばらしい」と評価したが、「教壇復帰がなければ、復職の意味は半減する」とも述べ、本格復帰を強く期待した。

さらに、米国の例を挙げて「人工呼吸器をつけた、曽我部さんよりさらに重い障害のある人が、当たり前のように社会復帰を果たしている。基本的には学校など受け入れ側の問題だ」とし、公費による介護者制度の必要性を提言した。

定藤教授も76年12月に交通事故で頸髄を損傷。車いす生活を余儀なくされたが、翌年10月には大学に復職し、現在は社会福祉学の講義やゼミを担当している。

第二部では、曽我部さんを3年半支えてきた教師仲間や生徒の母親らでつくる「曽我部さんを支援する会」のメンバーら二人が加わり、支援活動の歩みなどを振り返った。この中で、音声で入力するコンピューターなど曽我部さんが教壇復帰の際に活用できる機器の話題も取り上げられた。

シンポジウム参加者の一人で、奈良市の民間福祉施設「たんぽぽの家」スタッフの成田修さん(28)は「障害のため本人が自由に動けないことが、周囲の人に対してはかえってプラスに働くということを再認識した」と話していた。

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