この国のゆくえ 危機の今こそ考える

日経ビジネス:2009年1月19日(月)より転載
  篠原 匡(日経ビジネス記者)

弱者を変えた冷徹な合理性

“障害者集団”、スウェーデン・サムハルの驚愕(3)


ゲハルト・ラーソンは28歳の時に、保健社会省の事務次官になった
(写真:Niklas Larsson)

 顔に刻まれた深い皺が、その人生がいかに濃密であったかを物語っていた。

 彼の名前はゲハルト・ラーソン。前回前々回とリポートした“障害者団体”、サムハルの生みの親である。

 1980年の設立以降、19年間にわたってサムハルの経営トップの座にあった。99年に退任した後は、昨年までスウェーデン中部のヴェステルノールランド県の知事を務めた。63歳になった今も「食品安全対策委員会」や「薬物乱用対策委員会」の議長など政府の要職を占める。

 ゲハルトの経歴は日本の常識では測れない。

28歳の事務次官

 69年に大学を卒業したゲハルトはスウェーデン南部の都市、ベクショーの市役所で働き始めた。ここで医療や福祉を担当したゲハルトはベクショーの障害者福祉政策を大きく転換した。それまで精神的な障害を持つ人々に対しては大規模病院でまとめてケアしていたが、ゲハルトは地域にコミュニティークリニックを作り、個別対応のケアを実行したのだ。それまでの政策を大きく転換する決断だった。

 その取り組みが評価されたのだろう。76年、28歳の若さでスウェーデンの保健社会省の事務次官に就任している。歴代で最年少の事務次官だった。

 この年、44年も続いた社会民主労働党政権が終焉し、三党連立政権に移行した。この時、ゲハルトと同郷の人物が大臣に就任するという幸運に恵まれた。もっとも、スウェーデン人は強烈な合理主義と現実主義で知られる。「大臣以上に省を掌握していたよ」。保健社会省でゲハルトの下にいたサムハルのディレクター、リーフ・アルムが振り返るように、ゲハルトには次官に相応しい力があった。

 そして、次官に就任したゲハルトは温めていた1つのアイデアを実行に移した。それは、障害者を雇用し、労働市場に組み込むための企業、サムハルを作るというアイデアである。

ヒューマニズムだけが理由ではない

 なぜサムハルを作ろうと考えたのか――。漆黒の闇に包まれた夕刻。ゲハルトに尋ねると、彼は口を開いた。

 「1つは人間的な理由だ。障害者が他の人と同じように働く。そういう社会を実現することは、人間として大切なことだと思った」


「障害年金モデルに疑問を感じていた」。そう語るゲハルトは、1つの社会実験を始めた
(写真:Niklas Larsson)

 その当時、スウェーデンでは障害者を施設に隔離し、障害年金を支給していた。障害者は社会の外側にいるアウトサイダーだった。だが、障害者を社会の外に隔離する社会が健全であるはずがない。そう考えたゲハルトは、彼らを社会の一員とする仕組みを作ろうとした。

 社会に組み込むにはどうすればいいか。そのためには何より、健常者と同様に就労の機会を提供し、自立した生活を送ってもらう必要がある。では、仕事はどうやって作り出せばいいか。障害者の仕事を生み出す組織を作ればいい――。こうした一連の思考を経て、国が雇用の場を作り出すというサムハルの原型が生まれた。

 ただ、背景にある思想は、単純なヒューマニズムだけではなかった。早熟の天才はもう1つ別の視点を持っていた。それは、福祉コストの削減である。

 「障害年金モデルに疑問を感じていた」

 当時は障害者に現金を給付する障害年金が障害者福祉の中心だった。だが、障害年金をただ支給するよりも、障害者が働き、納税する方が全体のコストは下がるのではないか。彼らが働けば、その生産の分だけコストは減るのではないか――。ゲハルトはそう考えていた。

 人口900万人のスウェーデンは常に、労働力の確保に苦労してきた。19世紀後半には、貧しさのために国民の4分の1が移民するという辛い出来事も経験している。そういった過去があるため、スウェーデンには「働ける者は可能な限り働く」という意識が国民の間に強く浸透している。

 さらに、70年代に入ると、30年代から続く高福祉路線は曲がり角に差し掛かりつつあった。高い経済成長を背景に手厚い福祉を実践したが、オイルショック後の世界的な不況によって経済成長は鈍化。公的部門の肥大化が国家財政を圧迫していた。

 サムハルを作ろうとした背景にあるのは徹底した合理性。「労働人口を少しでも増やし、少しでも多く税金を徴収する」という冷徹な計算もあった。

90の補助金で100の人件費をカバー

 ゲハルトはサムハルの計画をまとめると、スウェーデン議会に提出。さしたる反対もなく設立が決まった。計画には与野党の大半が賛成、労働組合や一般の市民も同意した。「いいことはやるべき」。ここでも、スウェーデン人の合理性が発揮されたといえるだろう。

 サムハル設立を任されたゲハルトは次官を辞任すると、全国の自治体が独自に抱えていた作業所を統合、全土をカバーする障害者組織を作り上げた。1980年のことだった。

 「雇用と労働を通して障害者福祉コストを低減させる」というゲハルトの社会的な実験。現状を見れば、成功している。

 「政府からの補助金」と「障害者の賃金コスト」を比較したグラフを見てみよう。設立当初の1981年。賃金100に対する補助金の割合は170%だった。これは、障害者の人件費に対して1.7倍の補助金が必要だったということを示している。

 この比率は一貫して下がっている。

 81年に170%だった数値は91年には120%まで縮小した。その後、金融危機の影響で数値は上昇したものの、97年には100%を切るまでに。今では、90%近辺で推移している。これは90の補助金で100の人件費が賄えるようになったということ。同じ金額をばらまくよりも、10のコストが下がったということだ。障害者雇用や一般企業への転職という役割も考慮に入れれば、十分すぎる結果だろう。

 設立当初は従業員の20%を、障害者をサポートする健常者が占めていた。だが、現在ではその割合も10%程度まで減少している。障害者だけでうまく仕事が回せるようになったことが大きな要因だ。「働く意志のある人に機会を提供する」という崇高な理想。障害者を労働市場に組み込み、社会的なコストを下げるという実利的な狙い。その両方を実現したのだ。

ベルリンの壁とともに崩壊した拡大路線

 もっとも、この30年を振り返れば、サムハルの航海は決して順風満帆ではなかった。荒波に翻弄され続けた30年と言っていいだろう。

 設立当初、サムハルの業務は製造業の下請けが中心だった。

 例えばイケア。一時期、国内45カ所にあるイケアの工場では約3000人の従業員が家具の組み立て作業に従事していた。イケアの創業者、イングヴァル・カンプラードをゲハルト自身が訪問し、トップ営業をかけた成果だった。同国を代表するITメーカー、エリクソンでも1200人が働いていた。

 下請け業務が多かったのは、国内に製造業が多く存在していたためだ。スウェーデンは日本と同様の産業国家。イケアやエリクソンのほかに、大手自動車メーカーのボルボやサーブ(Saab、Svenska Aeroplan Aktiebolagetの略)、エリクソン、ベアリング大手のSKFなど、世界に名の知られた製造業が国内にある。こうした製造業の厚みもサムハルを成立させた要因だ。

 その後、サムハルは下請けだけに飽きたらず、自社工場を作り、自社製品の製造も始めた。歩行器やバス用品、家具など障害者向けの製品が中心だった。トナカイの置物のようなお土産品も含めると、100種類以上の商品を作っていた。

 ゲハルトの指揮の下、拡大路線をひた走ったサムハル。ピークの89年には3万人の従業員を抱えていた。だが、その拡大路線もベルリンの壁とともに崩壊してしまう。

 89年に起きたベルリンの壁崩壊。冷戦体制の終焉とともに、東欧が西側経済に組み込まれた。その結果、スウェーデン国内の製造業は、徐々に労働力の安価な東欧諸国にシフトし始めた。大口顧客だったイケアも東欧に進出。90年代初頭には400カ所あった作業所も90年代後半には150カ所まで減少してしまった。サムハルはその競争力を急速に失った。

 そして、スウェーデンを襲った経済危機がさらなる打撃を与えた。

民業圧迫批判で事業を次々と売却

 80年代に段階的に進められた金融緩和の結果、80年代後半にはバブル経済に突入していた。そのバブルが91年に崩壊。その後、大胆な公的資金の注入などによって3年でスウェーデン経済は回復基調に乗ったが、マイナス成長や高失業率、財政赤字などに苦しむことになった。

 国の機関だったサムハルも影響を受けた。設立当初は財団だったサムハルだが、財団では危機に対応できないと考えた政府は、経営の自由度を高めるために株式会社に組織を変えた。転職数やROE(自己資本利益率)などの数値目標を課したのもこの頃のこと。サムハルは効率的な経営を模索し始めた。

 民業圧迫批判も大きくなっていた。

 補助金を得ているサムハルが自社製品を作るのは公正な競争に反する――。こういった批判は設立当初からあった。ただ、規模の拡大とともに批判の声も大きくなっていた。その後、いくつかの裁判を経て、サムハルは子会社や事業を次々と手放していった。前回触れたデータ管理事業もその1つだった。

 大きな壁に突き当たったサムハル。生き残りのために、ビジネスモデルの転換を図った。サービス業への進出である。

 前述した通り、業務の中核は下請けや自社製品などのモノ作りだった。だが、東欧が欧州経済に組み込まれた結果、国内の製造業は急速に縮小している。新しい仕事を作る必要に迫られたサムハルは、「サービス業」へ転換しようと考えた。

 その後は試行錯誤の連続だった。

優れた経営感覚で時代の荒波を越えていった

 障害者でもできるサービス業を作り出すために、ホテルを買収し、ホテル経営を始めた。だが、サムハルにホテル経営のノウハウはない。それに、この場合、雇用を増やすためにはホテルというハードへの投資が必要になる。最終的にホテル経営からは撤退。他者が提供しているサービスを受託するという方向に舵を切った。その典型が、前々回で紹介したイケアの清掃サービスであり、前回紹介したカフェテリアの配食サービスである。


今では、イケアの清掃サービスのようなサービス事業は当たり前になった
(写真:Niklas Larsson)

 「サービス業は人とのコミュニケーションが必要。施設の外に出る必要もある。障害者には無理ではないか」

 サムハルの幹部からも異論が出たが、ゲハルトはサービス化を断行した。その決断がサムハルの今を支えている。2000年以降、製造業の空洞化はさらに加速したが、その穴を埋めるように、業務に占めるサービス業の比率は増大した。「できない」と言われたサービス業に対応した障害者や現場のマネジャーの努力も大きかった。

 そして、サービス業への転換と同時に、手紙の仕分けや配送センターのパッキング業務など、モノ作り以外の業務を一括して請け負う業務も増え始めた。相手の企業にチームを派遣して業務を請け負うことは、「障害者のマネジメント」という新たなサービスの発見にもつながった。


サムハルは郵便物の仕分けを一括して受託している
(写真:Niklas Larsson)

 業務内容の転換に成功し、障害者でもサービス業ができることを証明したサムハル。彼らがやってきたのは、経済の荒波に対応し、臨機応変に戦略を変えていくという経営そのもの。国営企業だが、民間企業を超える経営感覚で、自らが進むべき方向を見極め、危機を乗り切ってきた。


難民としてスウェーデンに来たアブドゥル・ハッサン。彼の兄は政治活動で銃殺された
(写真:Martin Ekelin)

 最近では、サムハルは新たな役割も担うようになっている。それは移民対策である。サムハルの職場には、中東系や東欧系の従業員が目立つ。

 ストックホルムの野菜加工場で働いていたアブドゥル・ハッサンはイラクからの難民だった。イラクで大学に通っていたが、政治活動をしていた兄が警察に捕まり、銃殺されてしまった。それをきっかけに、スウェーデンに移り住んだ。兄の処刑のショックが大きかったのだろう。その後、精神的に不安定になったという。

 スウェーデンにはアブドゥルのような難民が少なくない。最近では、こうした外国人の就労、転職支援の場として、サムハルが活用されるようになった。さらに、メンタル面に問題を抱えている人のリハビリ機関としての役割も求められている。

メンタル面に問題を抱えた人のリハビリ機関に

 学校の先生や病院の看護師などの中には、様々なプレッシャーを抱えて鬱状態になっている人が増えている。こうした人々をサムハルが雇用し、1年などと期限を区切って別の学校や病院に派遣する――。そんな社会復帰プログラムを進めている。


右側の女性はルーマニア出身と言った。ベルリンの壁崩壊後、スウェーデンに移ってきたのだろう
(写真:Niklas Larsson)

 「メンタルに問題を抱えた人々の仕事を作ることが中長期の課題でしょう」。CEOのブリギッタ・ボーリンは言う。

 スウェーデンは社会との接点として勤労を重視している。「障害者も同じだけど、働かなければ対等な関係にはならないし、スウェーデン人の友人もできない。社会的な弱者になってしまう」(スウェーデン社会福祉研究所所長、グスタフ・ストランデル)。これは多くのスウェーデン人が持つ考え方である。労働を通して社会参加を促すサムハルは、弱者を対等な市民に変えている。

 100年に1度と言われる金融危機が世界を襲っている。1人当たりGDP(国内総生産)の高さを誇ってきたスウェーデンも例外ではない。昨年12月には、サーブとボルボが政府に金融支援を要請すると報道された。SKFも人員削減に踏み切っている。米国発端の経済危機は、スウェーデンの実体経済にも深刻なダメージを与えている。

 それでもサムハルは、目の前の危機に身をすくませているだけではない。しっかりと次の時代を見据えている。

 経営陣は昨秋、2011年までの中期経営計画を策定した。この計画では、サービス事業の拡大とともに、製造業の国内回帰をうたっている。

 「サービス事業がさらに伸びることは間違いない。まずはこの分野に注力していく。あとは、製造業の国内回帰。もう一度、組み立てなどの仕事が増えると考えている」

 CEOのブリギッタによれば、東欧やアジアに進出した多くの製造業は、品質や物流などに悩みを抱えており、国内に回帰しつつあるという。こういった企業の下請け先として、もう一度、サムハルの価値が高まる、と見ている。さらには、環境や介護、ツーリズムなど、新しい分野でのサムハルの仕事も探していく。

障害者の能力を可視化するシステム作り

 そして、今後は従業員の一人ひとりの「貸借対照表」を作る。障害者Aは「○○」と「××」ができる。障害者Bは「△△」しかできない――。このように、従業員一人ひとりの能力を可視化していく。そして、従業員全体で「○○」ができる人が30%、「××」できる人は50%という具合にまとめていく。

 個人の能力を可視化すれば、障害者が転職する際の目安になる。従業員全体の能力をまとめることで、どの能力をどの程度高めればいいか、という人材育成の目標を明確にできる。この従業員の貸借対照表。今年から進めていくという。

 グローバル資本主義が隅々にまで浸透した今、企業の競争は激しさを増している。そんな状況でなぜ、非効率にも見える“障害者企業”が存在しているのだろうか。この答えを、何度も考えてきた。

 1つは、障害者に就労の場を与えるという社会的使命と社会的コストを低減するという理由である。そして、障害者それぞれの能力に合わせた仕事の開拓や障害者のマネジメントに象徴されるように、サムハルが一企業として独自のノウハウを築き、経済の状況に応じて適切に経営戦略を変えてきたからである。

 だが、サムハルが存続しているのには、独自の経営努力だけでは語りきれない背景がある。それはサムハルを生んだ国、スウェーデンという国のあり方そのものだ。

(文中敬称略)

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