村木厚子さんの裁判を見守り支援する部屋

平成22年3月10日 第12回公判がおこなわれました。

間隆一郎・元企画課長補佐が証人として出廷しました。

第12回公判 傍聴記 平成22年3月10日
by 花ずきんsナミねぇ

「裁判傍聴メモ3月10日 by花ずきんs」

村木課長と綿密な情報交換、情報レベル合わせをしていた課長補佐が証言

 真冬のような寒い一日だった。今日の証人で村木さんの当時の部下の一人であった間課長補佐が全身から自信を漂わせ大柄な体で堂々と入廷してきた。
 尋問を通じ、彼が証言で明らかにし強調したことを記しておきたい。

 第一は、村木課長と間課長補佐は毎日一日に数回も課長席のそばの丸椅子にかけひざ詰で綿密な情報交換、情報レベル合わせをしていたと言うことである。ことに一日の業務がすべて終わってからは、夜遅くてなっても出先から村木さんが企画課にもどり、「メモ魔」(間証人の言い方による)の村木課長のノートのメモに基づいて情報の共有が行われていた。村木課長が塩田部長から指示されたことがある場合はその内容ももちろん含まれるという。しかし、この中で、今回の石井一議員から要請があったとされる凛の会への証明書のことなど一切なかったと明言。通常通り出される証明書なら重要度が高いとはいえないが、もし議員から圧力があるような案件だととても重要なウエイトになり、村木さんが聞いていた件なら当然、自分も共有する情報だが聞いたことはなかったというのだ。

 第二は、「障害者自立支援法を成立させるために石井一議員の要求を呑んで不正な証明書を作成した」と言うことは、法案準備の時期からして全くありえないことだということであり、昨年6月29・30日の検察の事情聴取では詳しく説明したと言うことだった。自立支援法の準備に入ったのは8月末であり、石井議員から厚労省に要請があったとされる平成16年2月には、介護保険の適用などの検討をしていた時期で、それが無理と判断したのは8月末でそこから自立支援法の準備に入ったのだ。検察から示された資料を見ながら、これについて詳しく説明したことは、検察に素直に聞いてもらえたと言う。
 ならば、検察はこの時点で自らの描いたストーリーに無理があることに気づいていたのではないか。それでも、村木さんを犠牲にしてでも石井議員がらみとして主張し続けるのにはどんな背景があるのだろうか。

 第三は、彼自身の業務が政策の塊ごとに1名配置される政策調整員というもので、障害保健福祉部の中で政策国会対応の案件は自分の所を必ず経て各課,各室に議員への説明の仕方など指示して結果の報告を受けていたということだった。その彼が、凛の会のことは、事件となった昨年5月まで全く知らなかったということだ。

 

政治がらみでも議員案件でもなく、上村係長本人が言うように彼の単独犯行だということなのだ。
取調べの検事を証人として申請する予定の検察は、まだできることがあると思っているのだろうか。取調べ検事の証人尋問は18日ころから始まる予定。

 

上村証人が、当初から単独犯行を供述していたことを裏付け、村木課長関与を作文する検察の取調べの様子を記録した被疑者ノートが証拠として認められ、きょうの公判は閉廷。きょうは堂々とした人だけに証言は補聴器を頼りの難聴の私には聞きとめやすくありがたい1日だった。

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「厚子さん第12回公判傍聴記 byナミねぇ」

3月10日(水)すっかり寒さが戻ってしまった。
六甲山に住む友人からの「今朝も雪が降り続き、外に置いたバイクが雪だるま状態!」とのメールを読みながら、9:45、大阪地裁201号法廷傍聴席に到着。

グレーのツィードスーツの厚子さんが明るい笑顔で入廷し、傍聴者たちに「おはようございます」と声をかけながら、信岡弁護士と控え室へ入って行く。

10時開廷。

今日は、検事側5名(女性1名)弁護側7名(女性2名)、厚子さんは弁護側に着席。

証人の出廷を待つ間、S検事、なぜかまばたき多し。

10:08、間隆一郎(はざま りゅういちろう)元企画課課長補佐が入廷。180センチの大きな身体を丁寧に折って一礼。証言席でも再び深く一礼。弁護側証人として出廷した間氏は、今までの証人と違って堂々としており、全身から落ち着きが感じられる。

間元補佐は、裁判長に促され氏名を名乗ったあと、宣誓書を読み上げる。今朝は栗林弁護士からの尋問で公判開始。「今回の事件を、どのようにして知りましたか?」。間元補佐が「昨年5月28日、外郭団体に行かれた塩田元部長の電話で知りました。」と答える。

その内容は「職場(塩田氏の転職先)に検察の捜索が入り、携帯まで持っていかれた。検察に(自分は)狙われてるようだ。検察官に、石井議員から障害者団体への証明書発行について依頼の電話を受けただろうと言われたが、自分は全く記憶が無い。もし電話が有ったのなら、きみや村木さんに連絡や相談をしたはずだが、覚えてないだろうか?」という電話だったという。

間氏は「全く覚えがない。石井議員の名前も聞いたことがない」と答えた後「石井議員は障害福祉に関係ないですもんね」という会話を交わしたという。

栗林弁護士「その時、どのように感じましたか?」。「当時、塩田氏に議員から色々電話が有ったことは知っているが、政策的に重要なものなら私も相談を受けているはず、と思った」と間氏。弁護士「あなたは、当時どのような仕事をしておられたのですか」。間氏「課長補佐であると同時に、厚労省独自のポストである、政策調整委員という役目を担っていました。」
弁護士「政策調整委員というのは、どのような役割なのですか?」。間氏「国会関係の情報収集や答弁の指示を出す役割です。塩田氏に石井議員から重要な電話が有ったなら、必ず聞いているはずの立場です」。

弁護士「村木さんとあなたは、仕事上どのような間柄だったのですか」。間氏「毎日数回、情報交換し、議員や障害者団体とのやりとりが有れば 全て話しあっていました。村木課長の行動で自分が知らないのは、外で村木さんが職務上あまり重要でない人と名刺交換したような場合くらいだといえます。」「村木さんは、大変仕事熱心なうえにメモ魔で、省内外で常にノートを携帯していました。私と村木さんは、そのノートをお互いに参照しながら、今日の出来事の引継ぎや案件の打合せなど、短いときは数分、長いときは2ー30分の会話を、毎日4,5回交わしていたのです。」

間氏は、厚子さんがメモの中でも重要なものは、手書きだけでなくパソコンにも入力して保存し、仕事に漏れ落ちが無いよう幾重にも記録を残すタイプだったと証言。そして自分は役目柄、自席を離れることが殆どない(というか、離れてはいけない役職としての)日々を送っていたので、厚子さんを訪ねて来た人や厚子さんの仕事内容を最も熟知する立場にあった、こと、厚子さんが石井議員の依頼を処理するよう塩田元部長から指示を受けた、という報告を厚子さんから聞いたことは無く、厚子さんが自身の席で、倉沢被告に会ったり証明書を手渡したりしたなら必ず目にしているはずであるが、そのようなことも全く無かったと、証言した。

また、間氏の証言で、厚子さんが倉沢被告に「偽造公的証明書を手渡した」という、当時の「企画課の配席図」も明らかになり、倉沢被告が証言した「窓側の通路(のようなスペース)を通って、村木課長席に行った」という動線は、当時背の高いキャビネットで塞がれていたことが判明。通路が無いばかりか、厚子さんの机の前には半透明の衝立があって、真正面から書類を手渡すのは不可能だった、ということも明らかになった。

間氏の証言を聞きながら私は「検察が間氏を、重要証人として扱わないことの意味、というか意図」が、よ~く理解できた。厚子さんに、いわば密着して仕事をしていた間さんの証言を重要視すると、検察のストーリーが成り立たなくなるんやね!
間氏は何度か検察の事情聴取を受け、その都度、厚子さんの仕事ぶりを克明に話し、検察官に反論し、検察官の言いなりにならなかった・・・つまり検察にとっては邪魔者というか、無視したい存在やったのね。検察の恫喝や誘導に負けたり、取引可能な人だけが、検事側証人として残された、という訳。

検察が「省ぐるみの犯罪」というなら、厚子さんの直属の部下として密着してた上に、厚子さんを庇う証言をする間氏は、ホンマは最も怪しい人物のはず。検察って、どんだけ意図的にストーリーを創り上げる組織か、はっきり見えたわ!

検察は、上村元係長が厚子さんから「議員案件なので急いで」と言われたという供述調書をとっていたけど、上村氏が所属する社会参加推進室は、厚子さんが課長を務める企画課の下部組織でありながら、独立した部屋で独立した業務を行っており、一緒に仕事をすることは無く、従って上村元係長と村木課長には「仕事上の接点は全く無かったのです。」と、間氏。

「事件当時は、制度が大きく変化した時期とされているが」と弁護士の尋問が続く。「障害福祉予算が大幅に不足して、大変な状況だった」と間氏。「平成15年4月に、障害者の生活や施設を行政が決める措置制度から、障害者自身がサービスを選択する支援費(しえんぴ)制度に転換し、サービスを実現するための予算が大幅に不足してしまったのです。秋ごろからは16年度予算をどう確保するか、あるいはどう切り詰めるかが最大のテーマでした。他のセクション・・・児童や高齢者福祉予算から分けてもらうようなことも含め、関係部署との折衝も大変だった」と、当時を思い出すように語る間氏の声に苦渋が満ちる。

「後に自立支援法が成立したが、当時その法案との関係は?」自立支援法を通すため、大物国会議員であった石井氏の依頼を断り切れなかった、という検察側のストーリーの妥当性について、弁護士が確認を始める.。「平成16年春には、自立支援法についての議論は全く始まっていませんでした。」と、きっぱり答える間氏。

「当時、状況打開のために議論されていたのは、高齢者のための介護保健法が障害者にも適用出来ないか、ということでした。高齢者の中には、若くして障害を持ち、高齢になった方もいるので、法の整合性を取ることは可能ではないかと、議論が開始されたのです。しかし障害者団体から反対意見や慎重論が相次ぎ、議論がまとまることは有りませんでした。」「自立支援法に関する議論は、そのような経緯を経て、平成16年8月末から始まりました。私はそのグランドデザインの策定に関わり、17年2月、自立支援法は国会に提出されたのです。従って、本事件と自立支援法は、時期的に全く関係が有りません!」間氏の説明に、傍聴席の多数が大きく頷く。

記事を送るため、法廷を出る記者もいたが、今やもう誰一人、検察のストーリーが崩れる事態に驚くことのない、静かな法廷。

午前の残り時間で、検事側尋問が有ったが、間氏の当時の仕事内容の確認や、配席図の確認などに終始し、するどいツッコミが何一つ無いまま12時となり、裁判長が「休憩」を告げる。

午後は、裁判官から午前のやりとりを確認する尋問が行われたが、ポイントは「当時の配席図を、どのように確認したのか」ということ。
間氏は「厚労省では、どの席に誰が座っているか・・・名前と電話番号を書いた配席図を使っており、人が変わると配席図も変わるので、当時のものを見ながら自分の記憶と違っているところはないか、当時の補佐など職員に聞取りをした」こと。その結果「自分の記憶どおり、窓際の通路が無かったことが明確になった」と答える。

その後、裁判長から、間氏の入省からの経歴が問われ「健康保険、老人福祉、秋田市役所への出向。年金局に戻って、その後、和歌山県庁の出向を終え、平成15年4月から、厚労省社会援護局障害保健福祉部に在籍。平成15年6月から17年8月まで、企画課課長補佐として働いていました。」
「そして・・・社会保険支払基金を経て、平成20年7月から医政局に1年在籍。その後、大臣官房人事課でキャリア職員の人事と研修を2年担当し、21年7月からは、政策企画官として社会保障全般を担当しています。」と、現在の職責を語って、間氏は経歴の説明を終えた。

裁判長が、再び質問を投げかける。
「あなたは平成16年に、石井議員の名前を聞いたことは?」
間氏「全く、一度も、ありません。」
「石井議員のことを塩田氏から聞いたことは?」
「ありません。」
「村木課長から聞いたことは?」
「ありません!」

「あなたは、未明まで部屋に居ることや、泊まり込むことはありましたか?」
「はい。あまりよろしくないことだが、忙しい時はありました。国会審議をお願いしている時などは、朝まで仕事が続くときもあります。でも・・・」と、そこで間氏の声に、少しハニカミが混じる。
「私は、帰って朝ごはんを食べたいタイプなので、できるだけ帰ります。」

厚子さんから「間氏の愛妻ぶり」を聞いたことのある私は、思わず傍聴席でにっこり。

「朝の8時ごろに、職員は部屋にいますか?」
裁判長が、上村氏が書類を偽造した翌朝の8時に、課長印をこっそり押しに来た時の状況確認、と思われる質問をする。
「厚労省の勤務シフトは、8:30~17:15、9:00~17:45、9:30~18:15 と3種類なので、8時にはまだ誰も居ない場合が多く、その時は鍵がかかっています。」と、間氏。
上村氏が「管理室で鍵を借りて部屋に入った」と証言したことを、思い出す。

こうして、第12回公判は、しごく冷静に、クールに終わった。
公判後の記者会見で、記者から弘中弁護士に質問が。
「次の公判では、もう少し・・・なんというか、キャッチーな・・・見出しになるような事は予定されてますか?」

弘中弁護士の苦笑いを後に、大阪地裁を出たナミねぇでありました。

<文責:ナミねぇ>

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